空飛ぶ弁護士のフライト日誌 京都法律事務所
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空飛ぶ弁護士のフライト日誌

空飛ぶ弁護士のフライト日誌ログ─DAY19:女性であること【苦労した篇】 

   女性は車の運転が下手か否か。アラン&バーバラ・ピーズによれば,男は話を聞かず, 女は地図が読めないという。少なくとも,「一般的には」空間識別能力を要する車の運転 は女性より男性の方が得意な「傾向がある」,というのが社会の共通認識かもしれない。  少なくとも,私が航空部に入部した当時は,「認定ドライバー」,つまり部の所有する 車を運転する資格を持っている女性は,東海・関西地区の大学航空部全部を見渡してもほ とんどいなかった。ましてや,わが大学の航空部は女性比率が極端に低い。一昔前(私が 入部する2,3年前)にいらっしゃった女性には,あまりにお育ちが良すぎて「割り箸の 割り方を知らなかった」という信じがたいような伝説の持ち主もいた。女性=会計係,車 のことはわかりませーん,という伝統的風土というか雰囲気ができあがっていた。  そこへ,私が入部してきたんである。現在の30万倍はエネルギーに満ちあふれていた 私は,すぐにグライダーが,航空部が大好きになり,あれもやりたい,これもやりたー い!と言い出した。  「係?会計なんて嫌です,機体係がいいでーす!」と言って過去5年間で主将を4人輩 出していることから「エース機体係」と言われる(そんなことに何の意味もないのだけ ど)復座機のASK21係に納まった。  「認定ドライバー?なりたいでーす!え?これまで女性で認定ドライバーになった人は いないって?でも,なっちゃ駄目って規則で決まってるわけじゃないんですよね?じゃ, すぐに免許取りまっす!」1回生の夏休みに入ってすぐに合宿免許で免許をとり,8月に は運転練習=運練を始めてしまった。少しでも早く認定を取りたくて,運練をする資格の ある先輩たちをせっついて毎日のように運練をしてもらい,瞬く間に「準認(準認定)」, 「認定」を取った。確か1回生の12月か1月だった。  これまで男女問わず,そんなに早い時期に認定ドライバーになった例は多くはなかった と思う。浮かれていた私に,認定ドライバーとしてデビューした直後の1月合宿で,冷や 水が浴びせられた。機材車を運転して木曽川に向かう途中,「高速道路で車線変更をする 際に後ろの車に強くブレーキを踏ませた」という罪状で,技量不十分として「認定取消」 処分となってしまったのである。今ではそれで良かったとは思うけれど,まあ,ここには 書けないようないろいろな事情もあり,当時の私としてはその処分には大変不服だった。  その後,リト認(リトリブ・カーという特殊な車を運転する認定)を取る際も,まあい ろいろあった。私が女性だから,認定をおろしたくない,責任を持ちたくない,と先輩か ら言われたこともあったし,私が「女」であることを利用して優先的に練習を付けてもら っている,という男性からの批判もあった。  3回生の夏には,グライダーに装着した長さ1kmのワイヤーを巻き取る,「ウイン チ」を操作するウインチマン(ウインチウーマン)の資格を取った。ウインチマンは,自 動車関係の資格のほぼ頂点に位置する。東海・関西地区全体でも,1学年に2〜6人くら いしか取らない資格である。ずっと昔にはおられたのかもしれないが,少なくとも私が話 で聞いていた範囲では,女性としてウインチマンになったのは東海・関西地区で私が初め てだった。  最初のころは,女性はウインチマンにはなれない,何故なら「12Vのバッテリーが持 てないから」,とか「赤(索切れなどウインチのトラブル)のときには上から索が降って くるし,アーク溶接(ウインチマンになるには必須の科目である)も危険だし,顔に傷が 付くといけないから」などと先輩たちから聞かされていた。確かに,私の2つ上の女性リ トマン(リトリブ認定を持っている人)は,ウインチマンになりたかったがバッテリーが 持ち上がらず諦めたという。  が,そんなことであきらめる私でもない。バッテリーは確かに重かったが,舐めてはい けない。私は女性としては相当腕力に自信がある(あった)んである。高校時代は背筋力 が120kg近くあった(女性としては結構な数字のはずだ)。  顔に傷がつくなんて,がさつな私が気にするはずもない。「学連教官」というエライ人 に直談判して,「女性はウインチマンになれないんですか!?」と掛け合った。答えは 「そんなことは,ないよ。バッテリーが持てて,溶接もできて,必要なことができれば。」 というもの。  夏は「常駐」と言われるくらい木曽川に通って,曳航の練習をした。ウインチを整備す るときには可能な限り顔を出して,チェーンブロックを使ってプロペラシャフトをつり上 げ,クラッチ交換をしたり,直径1m以上あるタイヤの交換をしたりした。トラックの解 体屋さんに通って,積み上げられた中古部品の中から型式のあうオルタネーターだとかス ターター,ゴムホースなんかを探しだし,100円とか300円で分けてもらってきたり もした。口述試験のために,車のあらゆるメカニズムを勉強した。今でこそタイヤ交換も できるかどうか怪しいものだが(たぶん体が覚えていると思うけど),当時はサーモスタ ットの作動原理とか,足回りのキャンバー・キャスター・トゥインの違いなんていうこと もわかっていた(わかります?)。  そうして,実技・口述とも試験をパスし,晴れてウインチウーマンとなったとき・・・ 本当に,ランウェイでぽろぽろ涙が出た。号泣した。ここまで来るまでの,いろんなこと が喉の奥の方で発酵して,ほとばしり出た。  その後も,女性初?の機トラ(機体運搬用トラック)ドライバーになったり,留年もし て教官にもなり(女性教官は結構いらっしゃったが),いろんなことがあった。卒業する ころ,後輩の女の子から,「古川さんが先に立ってくれはって,女子がいろんなことやり やすくなりました」と言われたとき,しみじみと嬉しかった。  今考えると,ガラスの天井を,泣いたり,転んだり,笑ったりしながらガシガシ突き抜 けていったあの頃の私は,同性にとっても異性にとっても,煙たい存在だったろうなあと 思う。当時の私は傲慢で,実力さえあれば,どんな壁も突き抜けていけると思っていた。 結果が出せないのは努力が足りないせいだと。言い訳を言うのは嫌だ,かっこわるい,と 思っていた。  今も私は,弁護士という資格を取って,男女問わず実力を発揮できる場所にいる。で も,仕事を通じて,自分一人の努力ではどうしようもできない,厚いガラスの壁の前で歯 がみをしている女性もたくさんいることを知るようになった。こうした社会の壁に対し, 私自身に何ができるか。自分の小ささを実感するけれど,これから一生かけて,立ち向か い続けたい。  あのころのように,きっと超えていけると信じて。                            弁護士 古 川 美 和 







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