まるで桃源郷のようだった(千年の丘から天空の庭を望む)。
ここは、奈良県吉野郡東吉野村。
あの有名な吉野山の桜ではない。
関西のマッターホルンとも呼ばれる高見山(たかみさん、1248.4M)の近くに、この「高見の郷」の桜がある。
林業の衰退に伴いだんだん荒れていく山の再生を考えて、花好きな母親が県外まで見に行く桜を植え育てることした島崎さん。
全国から約1000本のしだれ桜を集め、2004年に開園した。しだれ桜ばかり1000本というのは大変珍しい。
2019年4月21日(日)。晴天で絶好のお花見日和。
当初の予定では、高見山に登り、その帰りに高見の郷に立ち寄る予定だった。
ところが、8キロ程手前から桜見物の車の大渋滞で、全然前に進まない。
やむなく途中の高見公園で昼食を食べ、渋滞が少しおさまった午後1時30分頃に出発。
高見山登山はあきらめ、高見の郷の桜だけを見ることにした。
高見の郷に近づくにつれ、車道からでも、ピンクに染まった山が見える。感動!
九州のミヤマキリシマを見た時も、山が濃いピンクに染まっていたことを思い出した(2012年6月15日付けブログ。右検索欄に「ミヤマキリシマ」と入力してください)。
やっと、高見の郷に到着。
受付には、たくさんの列。
高見の郷のしだれ桜は山の斜面に植えられているので、展望台である「千年の丘」に行くには、標高差約300Mほど、約800段以上の階段を上がらなくてはならない。
そのため、園内には、無料の送迎バスが走っており、そのバス待ちの人達の列だった。
高見山には登れなかったので、体力が温存されていた私はもちろん階段を上る。
山の斜面のしだれ桜を眺めながら、急階段を上っていく。
どんどん階段を上っていくと、「天空の庭」というフラットな場所に到着。
しだれ桜が、まるでシャワーのよう。
天空の庭では、食べる物なども販売されており、しだれ桜の中の遊歩道を歩いたり、飲食もできる。
天空の庭から、ほぼ水平に遊歩道を歩き、それから更に階段を上って、展望台の千年の丘へ向かう。
(下の写真の道は、無料バスの道路)
千年の丘への遊歩道から天空の庭を望む
そして、千年の丘に到着。
丘から天空の庭を望むと、冒頭の写真のような景色が広がっている。すごい!すごい!
素晴らしい!桜がまるで雲海のよう。
下りも、もちろん階段を下る。
高見山には登れなかったが、階段の上り下りで結構な運動になった。
2019年4月アーカイブ
京都の地域医療・訪問医療の草分け的存在の早川一光(かずてる)医師が昨年6月2日に亡くなられて、もうすぐ1年が経とうとしている。
早川医師のことは、これまで、このブログで2度書いた(2017年3月10日付け、2018年6月5日付け。右検索欄に「こんなはずじゃなかった」と入れて検索してください)。
2016年1月から京都新聞で始まった早川医師の連載「こんなはずじゃなかった」。
早川医師自身がガンにおかされ、寝たきりとなって闘病生活を送る中で、亡くなるまで約2年半続いた。
軽妙な語り口で語る本音は、とても面白く興味深かった。
その連載は、今年2019年の坂田記念ジャーナリズム賞も受賞した。
その早川医師を撮影した写真や収集資料を再構成した展覧会が、現在、京都新聞社2階ギャラリーで開催されている(4月13日~5月12日。午前10時~午後5時)。
早川医師の闘病中の姿、家族、自宅などが大判のパネルで展示されているほか、昭和20年8月15日の終戦の日から、早川医師が亡くなる昨年までの新聞記事が年を追って順に並べられ、その中で早川医師の地域医療のとりくみの歩みや国の医療政策などが紹介されていた。
早川医師は、確実に、京都の庶民の歴史を作ったお一人であったと思う。
2018年7月、タイ北部の洞窟に13人の少年らが閉じこめられた事件はまだ記憶に新しい。
ダイバーたちによって、全員が無事救出された。
そのタイの少年たちのサッカーチームが、2019年4月5日来日し、翌6日、福島県を訪れ、地元のサッカーチームと交流試合をした。
なぜ、福島なのか。
2018年11月21日付け京都新聞夕刊1面の「現代のことば」欄に、立命館大学の開沼博准教授が次のような文を書いておられ、それが、とても感動的な内容だったので、切り抜いて保管していた。
救助活動の苦労の1つに「光の確保」があった。
複雑な構造をした洞窟のため、ライトで照らしても行き先を把握しきれない。
そんな現場に600個の「光る石」が持ち込まれた。
電気がなくても水の中で発光する畜光磁器。
ダイバーはこれを道しるべとして、すべての少年らの救助に成功したという。
そして、実は、この畜光磁器は福島第1原発事故の後、全村避難の対象となった福島県川内村で作られたものだった。
この事件の時、川内村の遠藤村長とこの畜光磁器を製造する企業「コドモエナジー」(本社、大阪)の岩本社長がタイを訪問していたことがこの偶然につながったという。
社会の役に立つものを福島の被災地から発信したいと、原発事故後、川内村に工場が作られ、製造されてきたのだった。
そして、タイの洞窟の中で、その畜光磁器は光輝き、少年らの救出につながった。
あの世界的に注目された事件に、このような日本人の素晴らしい貢献があったのだ。
実は、岩本社長は、否応なく衰退して弱っている地域を応援する事業が必要だと考え、川内村でも工場だけでなく、カフェやイベントで移住や交流人口を増そうとかしているという。
岩本さんの活動が「光」のように輝いている。
今年初めての登山は、香川県のさぬき市と東かがわ市にまたがる山、女体山(にょたいざん、774m)。
女体山を越えると、第八十八番札所「大窪寺」があり、そこが下山の目標地点。
「道の駅ながお」の向かいに「お遍路交流館」があったので、そこに立ち寄り、「大窪寺」まで歩くMAPをもらい教えてもらった。
当初計画していたよりも近道があることがわかった。
最初は、バス通りを歩き、次のバス亭から川沿いの道に入る。
しばらく進むと、「四国のみち」(おへんろの道)と書かれた道標があった。
ちゃんと「大窪寺」も示されている。
最初、道は、ゆるやかな坂道が続く。
途中、何回か、林道を少し歩いては、また山道に入ることを繰り返した。
所々に道標があり、迷うことはない。さすが、お遍路さんの道である。
どんどん進んでいくと、ようやく山らしい急坂の登山道となった。
今年初めての登山なので、まだ身体が登山向きとなっておらず、登山道も突然急坂となり、結構、息が切れる。
山頂直下は、岩場をよじ登り、頂上へ。疲れた~!
山頂は木々に囲まれ、あまり展望はない。
バスの時間に間に合うようにと、おにぎりを1個食べただけで下山開始。
第八十八番札所「大窪寺」に到着。
バスにも間に合った。
女体山までのお遍路道では、誰一人、登山者にもお遍路さんにも出会うことはなかったが、帰りのバスでは、何人かのお遍路さんと一緒になった。
皆、大窪寺へは、女体山を越えてではなく、バス道を歩いて来ているようだった。
そうだよねえ~、こんな山は、なかなかしんどくて登れないよね~
オマケ
帰りに寄った亀鶴公園(きかくこうえん)の前の神社(宇佐神社)の石像は、なんと猫だった。オモロ。
この初登山の後は、太ももの筋肉が痛み、数日間、階段を下りるのに苦労した。
情けな~い!
2019年3月末、今年の初登山とお花見を兼ねて、香川県を旅した。
まず、香川県三豊市(みとよし)へ。
「三豊市ってどこ?何があるの?」と言う人も多いと思う。
私もつい最近まで知らない町だった。
毎週火曜午後8時から、BS朝日で、「三宅祐司のふるさと探訪」という番組が放映されている。
三宅祐司が、毎週1カ所の土地を訪れ、地元の人の「ふるさと自慢」の食べ物や景色を探して歩く。
三宅祐司と地元の人とのふれあいもほのぼのとしており、毎週楽しみに観ている。
三豊市は、この番組を観て知った。
三豊市に入り、まず訪れたのは、「元祖 たこ判」の店「小前(こまえ)」。
「たこ判」は、大判焼きの型で焼く、大きな(直径10センチ位)たこ焼き。
卵たこ判は1個150円。メチャクチャ安い。そして美味しい!
1個で十分お腹がふくれた。
何十個も買う人もいて、その時は、事前に予約した方がよいらしい。
次は、讃岐うどん。だが、番組で登場した店は休み。
やむなく通りがかりの店に入る。
「かけうどん」「釜揚げうどん」「ぶっかけうどん」など種類が一杯あって、うどん通ではない私にはどんなうどんなのか、さっぱりわからん。
店の人に教えてもらい、肉ぶっかけうどんを食べる。
お腹もふくれたので、紫雲出山(しうでやま、352m)へ。
山頂まで徒歩10分の所に駐車場があるので、紫雲出山へは車で行った。
山頂には、吉野山に劣らぬほどの桜のみどころがあるということで訪れたが、桜はまだ開花しておらず、1週間早かったかなあ・・・
山頂展望台から桜の木々と瀬戸内海の島々を望む
山頂には、弥生時代の高地性集落の遺跡館があった。
この日の最後は、最も楽しみにしていた「父母が浜(ちちぶがはま)」。
約1㎞にわたる海水浴場で、「日本の夕陽百選」にもなっている。
夕方、引き潮になると、砂浜にできた潮だまりが水鏡のように人物を映すということで、若者を中心に「インスタ映え」するスポットとして人気の地。
三宅祐司の番組では、確か、あいにくの雨あるいは曇りだったような記憶。
この日は、晴れてはいたが、夕日までにまだ時間があり、しかも風で水面が波打っており、待てど待てど、なかなか水鏡のようにならない。
若者たちが色々ポーズをとっていたので、撮らせてもらった。
水鏡の写真はあきらめ、私も裸足になって海の中に出来た砂浜まで歩いて行った。
素敵な場所だった。
(女性弁護士の法律コラム NO.246)
2019年5月1日に新天皇が即位することにともない、元号が変わります。
そして今日4月1日午前11時半過ぎ、新しい元号が「令和」であることが発表されました。
元号については、元号法という法律が1979(昭和54)年制定されましたが、この法律には条項が2つしかありません。
「1 元号は政令で定める。」
「2 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」
改元に伴い、新聞等で元号についての歴史などを解説したものをいくつか目にしましたので、以下、簡単にまとめてみました。
元号制度は、もともとは中国を起源とするもので、皇帝が時をも支配するという思想にもとづくものだそうです。
しかし、現在では、中国でも使用されておらず、時の始まりとしての元号を使用するのは日本だけと言われています。
元号が制度として確立したのは、701年「大宝」から。日本書記では、最初の元号は「大化」(645年)とされていますが、出土した木簡に大化と書いたものはないそうです。
改元も、必ずしも天皇の代替わりでなくても、何かめでたい時にもなされることが多かったようです。
後醍醐天皇は、在位21年で8回、孝明天皇は在位21年で6回改元しています。
また4天皇にわたり約100年間改元がなかった時代もありました。
江戸時代は、幕府の許しがなければ改元できなかったし、元号を決定したのも幕府だったそうです。
一世一元は、1868(明治元)年から始まり、1889(明治42)年の旧皇室典範で法制化されました。
逆に言えば、これは、「天皇は在位中に元号を改めてはならない」として、天皇が随意に改元することが禁止されたという側面を持つようです。
戦後、新憲法のもとで、旧皇室典範は廃止され、元号は法的根拠を失いましたが、1979年に前記の元号法が制定されたという経緯です。
元号法では、前記のとおり「元号は、政令で定める」と規定されており、天皇の関与はなく、発令主体は内閣です。
法案審議の際には、元号の使用を国民に強制するものではないとの政府答弁がなされています。
あらためて元号を考えると、今では「時代の区切り」としての意味しかないように思えます。
それも、マスコミが「昭和の時代」「平成の時代」と区切って、それぞれの時代に発生した出来事から特徴づけようとしているだけで、昭和から平成にかわった1989年に区切るべき何かがあったわけではありません。
それは今回も同じで、2019年4月と5月とで、私たちの日常に特別の変化はありません。
ですから、今回のこれだけの騒ぎには、マスコミがあおっているような気がして違和感を感じます。
私は、可能な限り西暦を使うことにしています。
これまで裁判所は元号だけを使用しています。ですから裁判所に提出する書面には、やむなく西暦と元号を併記しています。
裁判所は、例えば、金銭の長期の分割払いで和解する場合、30年後までの分割払いであれば、和解調書に「平成61年まで」のように記載し、西暦は絶対に記載しません。
西暦への読み替えが煩雑で、非常にわかりにくい記載方法です。
外務省などは、これからは原則西暦と考えているようで、国際化の今日、裁判所も西暦に変更してほしいと思います。