1. 2024年9月

2024年9月アーカイブ

朝ドラ「虎に翼」の先週の主なストーリーは原爆裁判で、前回ブログで書いたとおり、最終日の金曜日の放映が判決言渡し場面だった。

 

多くの人が「虎に翼」と原爆裁判についてSNSなどに投稿されたりしており、私も改めて知ったこともあるので今回のブログで少し補足することにした。

 

まず、原爆裁判と呼ばれる訴訟は、朝ドラで描かれた東京原爆裁判以降、現在も続いているということである。

折しも2024年9月9日、長崎地裁が、長崎で原爆に遭いながら、国が引いた被爆地域から漏れたため被爆者と認められずにいる「被爆体験者」44人中15人の被爆者と認める判決を下したばかりだ。

京都でも1987年10月、広島の爆心地から1.8㎞で被爆した原告が提訴。1998年12月京都地裁は原告の疾病を原爆によるものと認定した(大阪高裁判決後確定)。

そしてこれら原爆裁判や法律の制定などには、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)や市民などの運動があったことを忘れてはならない。

 

そのような観点で、先週の朝ドラを振り返ると、原爆裁判の第1回法廷期日の傍聴者は寅子の旧知のジャーナリスト一人で、その後の場面でも傍聴席をうめていた多くは記者たちだったことに違和感を覚えた。

しかし当時、この裁判を担ったのは、岡本正一弁護士(裁判半ばで死亡)と松井康浩弁護士の二人で、弁護士主導であったため、まだ運動団体との連携はなかったようである。

またドラマでは、原告女性の尋問が採用されたにもかかわらず、本人の意向で取り下げとなったと描かれたが、史実は、裁判所が尋問を採用せず尋問申請を却下したとのことである。

 

東京裁判の判決後、原告代理人であった松井康浩弁護士は、次のように語った。

「(判決の)この言葉は、私の肺腑をえぐる」「判決が被爆者の権利を否定したことは、多くの学者がやむを得ない所とし、裁判所も被爆者に深甚な同情を示し、政治の貧困をぶちまけてはいてもなお遺憾と言わざるを得ない。被爆者としては、政治の貧困を嘆かれても現実の救済にならないのであって、裁判所から見放されては、もはや救われないのである」

そこには、8年間も原爆裁判を担当してきた原告代理人弁護士の無念な思いがにじみ出ている。

 

しかし、この東京裁判が提訴されたこと、そしてそれによって下された判決は、その後の政治や運動に少なからぬ影響を与えたことは間違いないものである。

 

 

 

 

 

 

2024年9月6日に放映された「虎に翼」は本当に感動的だった。

この日のラスト場面は原爆裁判の判決言い渡し。俳優平埜生成が演じる汐見裁判長が約4分にわたって判決文を読み上げた。そして、これは、史実で実際に言い渡された判決とほぼ同じ内容だった。

 

原爆裁判は、1955(昭和30)年4月、広島と長崎の被爆者5人が大阪地方裁判所と東京地方裁判所で国家賠償請求訴訟を提訴した裁判である(2つの裁判は後に併合)。

朝ドラのモデル三淵嘉子さんは、東京地裁において、3人の裁判官の右陪席として、ただ一人8年間の審理に最初から最後までこの裁判を担当した。

 

判決言い渡しは、1963(昭和38)年12月7日。

なお、史実では、三淵さんは、裁判結審後の1963年4月に東京家裁に異動しているため、ドラマとは違い、判決言い渡しの法廷には出席していなかった。

 

私は、三淵さんだけが8年間最初から最後まで審理に携わったのだから、判決文を起案したのも三淵さんかと思ったら、実際は左陪席の高桑昭裁判官(当時)が草案を書いたという。判決文は130頁に及ぶ膨大なものであった。

高桑さんは「原爆を巡って国家と争う通常の民事とは全く違う特殊な訴訟。大変な裁判を担当したなというのが当時の感想だった」と語る(2024年7月28日東京新聞)。

 

判決は、国内法上も国際法上も被爆者の損害賠償請求権を否定した。しかし、その理由中に述べられた内容は、原爆の違法性と政治の貧困を指摘する非常に格調高いものであった。

 

ドラマでの判決文言い渡しの場面は、涙なしでは観ることができなかった。

 

(以下、実際の判決文より)

「広島市には約33万人の一般市民が、長崎市には約27万人の一般市民がその住居を構えていたことは明らかである。したがって、原子爆弾による襲撃が仮に軍事目標のみをその攻撃目的としたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目襲撃と同様の結果を生ずるものである以上、広島、長崎両市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」

「人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ原子爆弾の投下によって損害を被った国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう。戦争をまったく廃止するか少なくとも最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである」

「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことはとうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。」

「しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかも、そういう手続によってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講じることができるのであって、そこに立法及び立法に基づく行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であることはとうてい考えられない」

「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおれないのである」

 

結果的に賠償請求は認められなかったが、被爆国の裁判所が原爆の違法性をはっきり示したことは、大きな意義があり、判決文は英訳され、世界的にも国内的にも大きな影響があった。

 

しかし、被害者放置の「政治の貧困」は今も続き、核廃絶の動きも大国の利害の対立の中で進まない、当事者国の日本もアメリカの「核の傘」の下にあって核兵器禁止条約を批准していない。

 

核廃絶への歩みを止めてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一条天皇皇后・藤原定子の二条宮跡の碑

昨夜のニュースで、一条天皇皇后・藤原定子の二条宮跡に碑が建立されたという報道を観た。場所は室町二条(下る)とのこと。今日、たまたま近くまで用があったので、見に行って来た。

 

 

 

藤原定子(977~1000年)は、藤原道長の兄藤原道隆の長女で、一条天皇の中宮(のち皇后)であった。

現在放映中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、定子を女優高畑充希が演じ、清少納言が仕えた中宮であった。

室町二条南側辺りに定子とその兄で失脚した藤原伊周の邸宅がそれぞれあり、室町二条の北側辺りには道隆の弟道兼の邸宅があったとのこと。

 

 

現在この辺りは、店舗や住宅街になっているが、京都御所にも近いので、平安時代には、天皇に仕える貴族たちが住んでいたんだと思うと、なんだか感慨深いものがある。

 

 

作家佐々涼子さん、逝去

ノンフィクション作家佐々涼子さんが、2024年9月1日脳腫瘍のため、56歳で亡くなった。

 

私が佐々さんの本を初めて読んだのは、当ブログ(2020年9月4日付け)で紹介した「エンドオブライフ」。読み始めて、舞台が京都にある渡辺西賀茂診療所であることを知った。診療所のスタッフらが末期ガンの患者さんたちとどのように関わり過ごしていくのかなどを描いたノンフィクション作品。当時、夫をガンで亡くしたばかりだったので、涙なしでは読むことができなかった。

 

その本を読んで、佐々さんが「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」という作品で、2012年第10回開高健ノンフィクション賞を受賞していることを知った。最近、NHKBSで米倉涼子主演でドラマ化もされた。海外で、災害・事件・事故・病気などで亡くなった場合に、遺体を家族に届けるという仕事がある。それが国際霊柩送還士。佐々さんは、国際霊柩送還士の活動を描く中で、故人の生き様そして家族の死を乗り越えて前に進もうとする遺族の姿を描いた。

 

私がこれまでに読んだのは、この2つの作品だけだが、佐々さんは作家になって以来、ずっと「死」というものに向き合って取材、執筆をされてきた。

 

その佐々さんが脳腫瘍に。

昨年8月27日付け毎日新聞での池上彰氏と佐々さんとの対談記事で、佐々さん自身が2022年11月に悪性の脳腫瘍と診断され抗がん治療を続けていることを知った。そして対談の中で、「『今日は楽しかった』と言えるよう毎日を過ごしています」「人生は長さではない。生きている長さで人の幸せは測れない」「どんなに短くても、生き抜くことが豊かで幸福なのだ」などと語られていた。そして、左半身に麻痺があるが、家族の支えで、病気のことを記録に残したいとも。

 

「死」というものの意味を考えさせてくれる作家だった。果たして佐々さんの遺稿は存在し出版されるのだろうか。

今は、2023年に出版された「夜明けを待つ」を読んでみようと思っている。

 

 

 

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