私がスペインでパブロ・ピカソの「ゲルニカ」を見たのは、1986年だった。
当時「ゲルニカ」は、マドリッドのプラド美術館で展示されていたと思う。
スペイン内戦のさなかの1937年4月26日、スペイン共和国政府を攻撃したフランコ将軍に加担したナチス・ヒットラーは、スペイン北部バスク地方の最古の小さな村「ゲルニカ」を、人類史上初めて空爆した。無差別殺戮である。同じ1937年5月25日から11月25日までパリ万博が開催され、スペイン政府から依頼を受けたピカソは「ゲルニカ」を完成させ、万博スペイン館にて一般公開された。
「ゲルニカ」に対面した当時、私は、スペイン内戦の歴史の詳細はほとんど知らなかったが、349㎝×770㎝の巨大なキャンバスに描かれた「ゲルニカ」には、兵隊も武器も描かれていないが、死んだ子どもを抱く母親の慟哭、馬のいななき・・・まぎれもなく戦争の悲惨さが描れ、その迫力に圧倒された。
そして、この小説「暗幕のゲルニカ」を読んで、何十年かぶりに、「ゲルニカ」を思い出すとともに、歴史に翻弄される「ゲルニカ」の過去を知ることになった。
実は、「ゲルニカ」には、他にもエピソードがあることを、この小説を読んで初めて知った。
戦後、国連本部がニューヨークにできる時、ピカソの承諾を得て、「ゲルニカ」のタペストリーが反戦と平和の象徴として安保理の会議室に入る前のロビーに飾られることになった。
2001年9月にアメリカで同時多発テロが起きた。ブッシュ大統領は、次の標的をイラクと狙いを定め、2003年2月、コリン・パウエル国務長官は、国連安全保障理事会ロビーで「イラクには大量破壊兵器が存在した」と記者会見を開いた。しかし、その時、長官の後ろに位置する場所にあるはずの「ゲルニカ」には、なんと暗幕がかけられていた・・・・そしてアメリカはイラク戦争へ突入
この史実「暗幕のゲルニカ事件」をきっかけに、原田さんは、この小説を誕生させた。
小説「暗幕のゲルニカ」は、2つの時間軸の物語が交互に並行して展開していく。
1つは、「ゲルニカ」製作前後の1937年から1945年。この時期、戦時下のパリでピカソと暮らした愛人で写真家のドラ・マールの心情を描く。ドラの目を通して、ピカソの怒りや苦悩、ピカソが「ゲルニカ」に込めたものも語られる。
2つは、同時多発テロが起こった2001年から2003年まで。アメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)でキューレーターとして勤務するピカソ研究家の八神瑤子。夫イーサンを同時多発テロで失い、2003年に開催する「ピカソ展」の責任者としてスペインから「ゲルニカ」を借り受けたいと強く思っている。アートを通して平和を訴えるために・・・そこに立ちはだかる大きな困難。
「ゲルニカ」は、ピカソの絵ではなく、「私たち」の絵。反戦のシンボルであり、「私たちの戦争」の象徴である。
小説の中で、この言葉が何度も出てくることが、アートで、あるいは文字で訴える、戦争に反対し平和を求める強い思いであろう。
折しも、今年はピカソ没後50年、そして、ウクライナ戦争の終わりも見えない。残念ながら、現在にも通じる思いである。
なお、「スペインに真の民主主義が訪れるまで保護してほしい」というピカソの希望で、MoMAに貯蔵されていた「ゲルニカ」は、1981年にスペインに返還され、1992年にソフィア王妃芸術センターに展示されるようになった。以後、一度も他に貸し出されてはいないとのこと。
おそらく私は、スペインで、再び「ゲルニカ」を見ることはないと思うが、世界にたった3つしかない「ゲルニカ」のタペストリーが群馬県立美術館にあることを知った。せめてそのタペストリーはもう1度見たいものである。