ドラマでヒロイン寅子(ともこ)は、初の女性弁護士になった後、結婚し、妊娠しました。
モデルの三淵嘉子さんが出産したのは1943(昭和18)年のことでした。
妊娠中、依頼されていた講演会を前に過労で倒れてしまった寅子に対し、寅子を法律の世界へ誘った恩師である穂高教授は、当面は母としての務めを優先すべきで弁護士を辞めるよう助言しました。それに対し、寅子はここで止まっては後進の女性達の道が途絶えることになると反論しましたが、穂高は「世の中、そう簡単には変わらんよ」と言い放ちました。寅子は「私たちに世の中を変える力があると信じてくださったのではないですか」と詰め寄りました。
穂高教授のこのような発言は、寅子の身体を気遣ってのことだったかもしれませんが、穂高が女性の法律家に理解がある温厚で理性的な人柄であっただけに、視聴者としてはショックでした。
実は、法律家をめざす女性に対して「家庭に帰れ」とする「圧力」は、この後もずっと続いていました。
それが国会でも取り上げられて大きな社会問題となったのが、1976(昭和51)年の30期女性司法修習生に対する裁判官教官による差別発言でした。
私が修習生になる数年前の出来事でした。
研修所の事務局長(裁判官)や裁判教官らは、公式旅行の懇親会の2次会や交通機関の中、教官宅訪問などの場で、女性修習生に対し、次のような発言を行いました。
「男が生命をかけている司法界に女を入れることは許さない」
「女が裁判するのは適さない」
「2年たって修習を終えたら、判検事や弁護士になろうなんて思わないで、修習で得た能力を家庭に入ってくさらせて子どものために使えば、ここにいる男の人よりもっと優秀な子どもができるでしょう」
「日本民族の伝統を継承して行くことは大切なことだと思いませんか。女性には家庭に入って子どもを育てるという役割がある」
「教官はこういうことも教えてくれるからいいですね」などなど・・・
当時、日本弁護士連合会の小委員会は、「とくに裁判官の身分を有する教官らの個人的発想により偶然に同時期に一致してなされたものとは思われない。それは最高裁判所の監督下にある司法研修所の女性法曹を排除しようとする基本的な教育方針の一環として行われたものと考えざるを得ない」と結論づけました。
その後も、女性はなかなか裁判官や検察官に任官できない時代も続きました。
弁護士の世界でも、「女性を雇う事務所なんかない」などと言い放つような弁護士もおり、女性の就職は厳しいものがありました。
(実は、「はて?」過去形で書いていいのかな?と思っています)
三淵さんが裁判所を退官されたのは1979(昭和54)年。ですから、司法研修所での女性差別発言が問題となった頃は、まだ裁判官在職中でした。研修所での男性裁判官のこれらの発言をどのように感じておられたのでしょう・・・