先日、急用で郷里の岐阜市に帰ることになり、親戚の家で、たまたま、表題の新聞記事ニュースをコメントしている記事を見つけた(2024年6月8日付け岐阜新聞)。
それによると、元記事は5月6日付けで、岐阜放送の元アナウンサーが市内の高校3年生55人を対象に、岐阜弁を調査。50語のうち15語しか理解できていないことがわかり、岐阜弁の衰退が著明となったという内容だった。
まあ、それだけの人数の調査で「衰退が著明となった」と言えるか疑問だが、どんな方言が理解できなかったのだろうと興味がわいた。
それで元記事を更に読んだところ、次のような言葉があがっていた。
ごがわく、づつない、かざ、くろ、けなるい、ざいはらい、ひまごい、よーさ、やっとかめ
う~ん、上記の言葉のうち、若者ではない私だって、3つしか意味がわからへんなあ・・・
岐阜に住んでいた頃より、京都に住んでいる方が長くなった。久しぶりに岐阜の友人に会うと、「すっかり関西弁やね」と言われたりするが、実は、本来の京都弁や関西弁など話せるわけがなく、関西の人からは「変な関西弁」と言われたりする。なぜなら、単語のイントネーションだけは、生まれついたものが染みついているからだ。
他方、岐阜に住むいとこや友人らと会話をしていると、ああ~これが岐阜弁だったなあ、と変な感心をしている自分がいる。
上記のコメント記事には、「方言は相手のルーツを知る最短で最高のコミュニケーションである。なぜか温かみと親しみを与え安心感をもたらす方言は、故郷の代名詞でもあり、性別や垣根を越えてコミュニケーションができる」と書かれていた。
全く同感である。全国あちこちの山に登るが、山頂で、岐阜弁らしきイントネーションの声が聞こえてくると、つい「中部から来られたんですか?」と尋ねたくなってしまい、相手が中部の人だとなぜかすごく嬉しくなってしまうのである。
方言って、いいよね。