今朝の新聞に、上記のような見出しが載っていた。
ユニチカは、鐘淵紡績(カネボウ)、東洋紡績(東洋紡)と並ぶ三大紡績の1つとして、日本を世界最大の紡績国に押し上げた。
1964年の東京オリンピックでは、女子バレーボールが金メダルを獲得し、「東洋の魔女」と呼ばれた。
そのユニチカは、近年業績が低迷し、繊維事業から撤退することが決まったとのこと。
私にとって、ユニチカは、裁判の相手方の企業だった。
京都府宇治市にユニチカ宇治工場があり、そこの紡糸の職場で働いていた労働者が、発生する二硫化炭素ガスによって重篤な疾病を発症した。レーヨンの製造に二硫化炭素は必需品とされていて、紡糸作業の際、それがガスとなって大量に放出され、それを長年吸引した労働者は重篤なガス中毒を引き起こしたのだ。
そして、労災認定された3人の原告がユニチカの企業責任を追及して、1987年3月、京都地裁に損害賠償請求訴訟を提訴(その後、原告は合計5名になった)。
当時、5年目の弁護士だった私も弁護団に加わり、その後、裁判所の和解勧告に従い、ユニチカが賠償に応じて和解解決した1997年5月まで約10年もの歳月が流れた。
宇治は「ユニチカの城下町」と言われる中で、そのユニチカ相手に闘った当事者原告と家族、そしてその支援の仲間たち、それを支えた京都職業病対策連絡会の人たち、他府県の化繊関連企業で働く協力者たち、そして医師らの専門的な協力、どの1つが欠けても勝利にはつながらなかった、ダイナミックな連携の中での闘いだった。
ユニチカの新聞記事を読んで、こんな思い出深い事件がふとよみがえってきた。