今日の新聞を見ていたら、16日「検察長官会同」が、東京・霞ヶ関の法務省で始まったという記事が目にとまった。この間の検察官の不祥事(証拠改ざん・犯人隠避等)にふれて、「調書至上主義があるなら、改めなければいけない。改革には不満が出るかもしれないが、良薬は口に苦い。しっかり受け止めて欲しい」と、訓示したとあった。
「調書至上主義」とはなんぞや、というと、ばくっというと、(刑事)裁判で、証人や本人の話を直に聞いたことよりも、捜査段階の「調書」を重視し、それを元に裁判を進めるということだ。
この前も、検事が「調書の方がわかりやすいですから」と、本人がいるにもかかわらず、捜査段階の供述調書(検面調書)の採用にこだわっていた。これをあっさり証拠採用する裁判官も裁判官だが・・・
「検面調書」とはなんぞや。書いて字のごとく、「検面」とは、検察官が面と向かって取り調べたということで、「調書」とは、(検察官が)被疑者(主に逮捕とか勾留されている人)を自らが取り調べて聞き出したことを、(検察官が)自ら作文して作り上げて書いたもののことだ。本当は聞き出していないことも含まれているかもしれない。言っているニュアンスが異なっているかもしれない。が、そんなことはお構いなしに、検察官の描くストーリーに合うように調書は作成される。
検察官が聞き出しているのに、検面調書は、1人称で、まるで被疑者本人が自分で書いたかのような体裁になっている。どういう質問にどう答えたのかというような経過は全く現れない。部分的にそのようにわざと作ることもあるが、たいがいが、「独白」調である。
だからこそ、どういう取調状況であったのかを、「最初から最後まで」録音や録画をして、記録にとどめておくこと(可視化)が求められている。この、取調の「最初から最後まで」というところが重要である。検察が進めてきている最後の段階だけの録画は全く意味がない。それどころか、害悪でさえある。
もし、検察庁が、本気で「調書至上主義」を何とかしたいと思っていたとしたら、取調の最後に調書を読んで署名・押印するところだけの録画を進めようとすることとは矛盾する。
だって、それは、調書を今後も裁判での重要な証拠とする(証拠としたい)、ということの表れですからね。
「自白は証拠の女王である」 問題は、ここから脱却するかどうかなんだけど。