「受刑者も市民」。今日レターケースを見ると、3月6日(日)の講演会の案内が入っていた、その表題が「受刑者も市民」とあり、副題に-厳罰化社会は何を生み出したのか、寛容な社会を考える-とある。この副題の方が、講演のテーマのようだ。
これを考えるとき、いったい刑罰とは何のために存在するのか、という基本的な考え方と切り離すことはできないと思われる。
「目には目を」で有名なハムラビ法典を例に出すまでもなく、「応報刑」が出発であることは何となくわかる。人を殺せば死刑だ、というのも「応報」感情からは非常に素直に納得できる。
しかし、時代が進むにつれ、文化が発達するにしたがって「教育刑」が重視されるようになってきた。その教育の中心は、受刑者の更生にある。悪いことをするとこんな罰が与えられるんだ、だから犯罪はやめなさいよ、という一般予防的な教育は重視すべきではない。
要は、犯罪を犯した者は、特別な(われわれとは別次元の)存在であり社会から隔離(場合によっては抹殺)すべき対象と見るのか、われわれ一般の市民と同様の存在であり再び社会に受け入れるのか、の発想の違いである。
ところで、刑法は、殺人を犯罪(殺人罪)として処罰の対象としている。「人を殺すな!」というメッセージである。
ところが、殺人罪の選択しうる刑罰には「死刑」が定められている。
一方で、人を殺すことは正義に反するとしながら、他方で、人を殺すことが正義だというメッセージを発している。
窮極の選択かもしれないが、最終局面において「人を殺すことが正義だ」とする社会が、本当に私たちの目指す社会でいいのだろうか。
寛容性と厳罰化は発想的には相容れない。寛容性のない社会は本当にそこに住むわれわれにとって優しい社会なのだろうか。しみじみと考えさせられた。