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   16年後の労災認定
       =中居労災大阪高裁逆転勝訴判決=

             京 都 法 律 事 務 所          弁 護 士  佐 藤 克 昭  1 はじめに
  中居和好さん(以下被災者という)が、平成2 年3月16日に亡くなられて16年以上を経た、 平成18年4月28日、大阪高等裁判所第14民 事部(井垣敏生裁判長)は、原判決を取消し、被災者の死亡は、業務に起因するもの であるとの判断を示した(上告することなく確定)。   被災者の奥さんである中居百合子さん(以下中居さんという)の、「仕事で倒れたこ とは間違いがない」という強い思いが、16年を超えて認められた。   高裁判決は、地裁判決の19頁に比し、別紙を除いても64頁という詳細な判決です  が、丁寧な事実認定とともに、「上告させない」という気持ちの込められた慎重な、し  かし、画期的な判決である。   高裁判決は、現行の認定基準を否定するなり問題点を指摘するなどというような、新  しい判断を示したものではないが、「現行の認定基準の運用については、個別的要素を  充分に検討していくことを否定していないのであり、単に時間外労働時間だけに着目す  るのではなく、それぞれの事案における被災者に関係する個々の要素を十分に検討する  必要がある」ということを全体として認め、現行の過労死認定基準の運用上、被災前の  時間外労働時間が、月平均45時間を超えるが80時間までには至らない、いわゆる  「グレーゾーン」(私はあまりこの用語は好きではありませんが)の労災認定業務のあ  り方について、一つの指針を与えるものとして極めて重要な判断を示したものである。   以下、事案の概要、高裁判決の判断、教訓等について述べる。   (尚、本事件の弁護団は、京都第一法律事務所の浅野・荒川弁護士と私ですが、本稿  は、職対連からの原稿締め切り要請の関係で私1人の判断で作成したものであり、文責  は私1人にあることをお断りしておきます。) 2 事案の概要   被災者(昭和10年6月2日生)は、昭和29年大日本印刷株式会社に入社され、一  貫して写真製版の技術者として勤務していた。しかし、昭和58年会社の合理化に伴い、  京都製版株式会社に移籍し、更に、昭和60年大日本印刷株式会社の子会社である大日  本物流システム株式会社(当時)に移籍し、以後物流システムの梱包作業員として稼働  してきた。   平成2年3月16日午後2時過ぎ頃、梱包作業場において梱包作業などに従事してい  たところ、急性心筋梗塞を発症して突然倒れ、間もなく同所において死亡。当時54歳。   本件は、事実経過や労働時間については大きなところでは、争いはなく、事実認定で  争いとなったのは一部であり、大きな争点は、それぞれの事実に対する評価であった  。以下、必要と思われる事実を整理する。 (被災者の業務の内容・作業状況)   グラビア印刷の巻き取り製品(平均10〜20s、特に重いものは40s以上のもの  もあり大きさは直径24p高さ35p程度)の包装作業及び倉庫係への運搬作業。具体  的には   @巻き取り製品の包装作業場までの運搬   A巻き取り製品の作業台への積み上げ   B製品の包装   Cパレットへの巻き取り製品の積み上げ   D倉庫係までパレット単位で運搬   E空になったパレットの回収    (被災者は昼勤においては主にAを担当)    夜勤時は2人1組、昼勤時は6人1組、一階の勤務が実働11時間として昼勤1時   間あたり約130個、夜勤1時間あたり27個を処理。   ( 但し、ここでは後述するように争点としてノルマの有無があった。)    作業場には、「喫煙用の休憩所はあったが、仮眠室や独立の休憩室はなく、横にな   って仮眠できるような場所もなかった。横になることもできる休憩室は事務棟(異な   る棟)6階の食堂内にあったが、作業場からは遠く、実情としては、昼勤の場合のみ   使用されていた。」(13頁)と認定されるような、作業環境であった。 (勤務状況)   勤務体制は、「夜勤を含む二交代の変形労働時間制であり、週のうち2日が夜勤、3  日が昼勤という、週5日の労働サイクルであった。そして2週間に一度は、昼勤と夜勤  が連続して行われることとなっていた。」(17頁)   死亡前6ヶ月の勤務状況は、各月の時間外労働時間数が、6ヶ月前65時間、5ヶ月  前53.75時間、4ヶ月前30.75時間、3ヶ月前15時間、2ヶ月前57時間、  1ヶ月前56.5時間。   3ヶ月前の平成元年12月17日〜平成2年1月15日の間においては、年末年始の  特別休暇の他に5日間の年次有給休暇を取得。 (死亡に至る経過)   被災者は、平成2年1月上旬頃、自転車通勤中に胸部不快感を感じ、同月31日花房  病院で受診し「心筋虚血症・増帽弁膜症の疑い」と診断され、同年2月28日頃までジ  ゴシンペルサンチン等の投薬を受け、同28日には、「自転車で時々走っているが、少  しましになってきた、心音純、不整脈(−)」とカルテに記載されているような状況で  あった。   一方、被災者は、大きな病院の専門医に診てもらいたいと考え、カレンダーの3月1  2日欄に「京大病院心臓外来毎週月火」と記載するなどしていた。   被災者は、同年3月5日から同9日まで連続5日間勤務し(そのうち8,9は夜勤)、  11日は休日であったが、翌12日風邪を引き、中央病院で診察を受け、風邪薬を与え  られたが、午後7時半頃には自宅を出て夜勤を行い、翌日も再度、中央病院を受診し  「とてもつらい,休みたいけど休めない、もう一日夜勤しなければ替わる人がいないか  ら」と言いながら出勤し、夜勤を行い、夜勤明け日である同月14日再度中央病院を受  診し、また、花房病院を受診したが、その際は、聴診上、心雑音が消失していたため、  フランドールテープを左胸に張るなどの処置を受けた。   3月15日は、有給休暇を取り、翌16日は、もう一日休んではという中居さんの助  言に対し、2日も続けては休めないといって出勤。実働5時間を経過した午後2時頃、  同僚が「品物をあげてくれ」等と言ったところ、被災者が聞こえなかったのか上げなか  ったので、再度強い口調で言うと「そんなに言わんでもすぐに上げる。ちょっと待って  くれ。」等と返答し、やや興奮気味になった直後突然倒れて死亡するに至った。 3 原審判決と具体的争点 (原判決の要旨)   原審判決の事実認定は、概ね高裁判決とは異ならない。後述するノルマについても  「個々人に対してノルマはなかったが、班全体として作業を進めていく必要があり、出  来上がってくる製品をできるだけ早く処理して、製品を滞留しないようにする必要があ  った」と、事実上のノルマがあったことを認めている。また、休暇が取りにくく、夜勤  の交代制勤務者が休むことはほとんど無かったことも認定している。   しかし、原審は、被災者に「準肥満状態で、準高脂血症状態」であったとし、「平成  2年1月上旬に罹患した新規発症型労作狭心症は、心筋梗塞に移行しやすいもので、準  高脂血症などの心筋梗塞の危険因子も有していたもので、冠動脈効果が徐々に進行する  などして、その狭心症が心筋梗塞に移行する危険は相当にあったものというべき」とし  て、1月からの不安定狭心症の症状が、かなり重篤であり、自然的経過により容易に悪  化するものであったことを認定した。   同時に、直前の時間外労働時間が、ほとんど60時間を超えておらず、死亡前8日間  に4日間の休日が確保されていること、勤務シフトは変更が無く、スケジュール通り実  施されていること、死亡前一週間の労働時間が27時間に過ぎないこと、などをあげて、  業務の過重性を簡単に否定した。 (具体的争点)   先述したように、本件は具体的な事実(とりわけ勤務体制・労働時間数)については  、大きな争いはなく、高裁においても上記したような60時間に満たない時間外労働・  直前の労働時間数を前提にして、次のような点が主な争点となっていた。   @深夜交替制勤務の心体に与える影響、拘束12時間の残業が常態化した勤務体制の    心体に与える影響    関連して    被災者の健康診断による血圧が、正常血圧の範囲内あったことの評価    夜勤明けの日の評価    スケジュール通り交替制勤務が実施されている場合は、日常生活で受ける負荷の範    囲内であるとの見解の当否   A被災者の業務内容が身体に与える負荷内容   B平成2年1月発症の不安定狭心症の被災時までの症状の変化の評価    とりわけ、@に関連しては、現行の認定基準の運用において、時間外労働時間数が、    70時間を超えないような事案については、様々な個別の要因がありながらも、そ    れを十分に検討することのないと思われる判断が一定見られていることから、認定    基準運用上の大きな争点として処分庁側も位置づけていたと思われる。 4 高裁判決の要旨と評価   高裁判決は、原審判決と大きく異なり、事実認定も詳細にわたり、一つ一つの論点を  解明しつつ、最終的に、業務起因性を認定するという手法を取っており、しかもその視  点が、いかにも働くものの実感を汲み上げた判断との印象を受け、改めて高裁裁判官各  位に敬意を表したい。   高裁は、平成16年7月30日上畑・前原両先生を鑑定人として鑑定を命じ、平成1  6年10月13日検証を採用し、平成17年1月21本件作業場を裁判長及び右陪席裁  判官が京都まで出向いて検証し(鑑定人の両先生も同席)、この判決を下している。   後述するように、判決では、鑑定意見書を根拠として引用する部分も多く、鑑定人の  両先生に対する処分庁側の最終書面における攻撃もすさまじいものがあったこと、それ  に対しても、判決の末尾に裁判所の見解が付記されていることも付記しておきたい。   また、検証においては、検証調書に「写真撮影及びビデオ撮影並びに作業員への話し  かけ、製品にふれること及び当事者において作業を再現することやメジャーを用いて測  定すること等をしないということを条件とした上で検証に応じる旨予告されていた。」  と記載されているように、極めて限定的なものとなり、持ち込み物も制限され、質問は  直接しないなど極めて一方的な状況となったため、同行された中居さん自身が、大きな  不満と不安を覚えるものであった。   しかし、弁護団は、そうした不充分な点はあるものの、高裁の裁判長が直接現場に出  向いて見聞をするという姿勢と、その姿勢からしっかりした認識(この検証は会社サイ  ドで準備がされた状況であり一定のバイアスが係っていることを前提にして必要な見聞  をすべきである)を持っているであろうことを信頼していこうと考えていた。(実際は、  やや心配な面もあったが、やはりそれは杞憂であった)   高裁判決は、2 判断 として「はじめに」で、一般論としての業務起因性の判断と  して、次のように述べている。   「虚血性心疾患の業務起因性の認定にあたっては、虚血性心疾患の発症機序の解明を  基礎としつつ、業務量(労働時間、密度)、業務内容(作業形態、業務の難易度、責任  の軽重等)、作業環境、そのほか心理的負荷などを含めた業務による諸々の負荷、さら  には、発症後の安静治療の困難性などの事情を総合的ないしは包括的に判断すべきであ  る。」そして専門検討会報告書86頁を引用して「労働時間の長さや、就労態様を具体  的且つ客観的に把握し、総合的に判断する必要がある」とした上で、「仮に認定基準に  完全には合致しなくても、これとは別の誘因、機序、経過等を明らかにして、業務と疾  病との間の相当因果関係の存在が立証されるならば、業務起因性は肯定されるべきもの  である」とした。   これが、冒頭、「現行の認定基準の運用については、個別的要素を十分に検討してい  くことを否定していないのであり、単に時間外労働時間だけに着目するのではなく、そ  れぞれの事案における被災者に関係する個々の要素を十分に検討する必要があると言う  ことを全体として認め、現行の過労死認定基準の運用上、被災前の時間外労働時間が、  月平均45時間を超えるが80時間までには至らない事案の労災認定業務のあり方につ  いて一つの指針を与えるものとして極めて重要な判断を示したもの」と述べた部分であ  る。   高裁判決は、こうした考えを前提として、本件事案について、具体的に総合判断を示  したのである。   以下各論点ごとに高裁判決の要旨と評価を述べる。  (ノルマの存否)   判決は、前提となる事実認定を次のように示した。   昼勤の作業は、6人1組となって行うため、個々人に対してはノルマはなかったが、   包装係の前工程であるスリッターの部門で製作された見包装の巻き取り製品が所定の   場所に積み上げられ、これを班全体で包装完成品として倉庫係に引き継ぐ作業を進め   ていく必要があり、出来上がってくる巻き取り製品をできるだけ早く処理して、製品   が滞留しないようにする必要があった。また、被災者の所属していた包装係は、作業   の最終工程に位置づけられていたため、前工程で作業の遅れが出た場合、品質事故が   発見された場合、クレーム情報が入ってきた場合は、当初の業務予定を変更して、緊   急の処理として、包装・搬出・納入などを行うこともあった。」   「夜勤の作業は、1夜勤で仕上げる数量が決められていたわけではないが、翌朝にど  れだけ製品が仕上がっているかによって夜勤における仕事量 が一目してわかる状況で  あったため、全体の作業量は少ないが、1人あたりに係る作業分担は昼勤に比して必ず  しも少なくはなかった。」   「包装部門で夜勤が必要とされていたのは、包装係の前工程であるスリッターの部門  で、一部の機械が交替稼働をしているため、夜間にも巻き取り製品が出来上がり、これ  をそのまま放置すると、巻き取り製品に傷等がつく恐れがあり、これを防止するために  速やかに包装を行う必要があることと、未完製品の滞留を無くし、順次完成品に仕上げ  ていく必要があるためである」   そして、「認定事実によれば、本件業務に携わるチームとして、毎日一定の作業量を  こなす必要があり、出来上がってくる製品をできるだけ早く処理をして製品を滞留させ  ないようにする必要があったと認められるし、その場に未処理の製品が残っていれば、  休憩時間も作業を継続することが多かったものと認められる。このような実態からすれ  ば、個人1人1人に作業量というものがなかったとしても、実質的に、チーム全体とし  ては所定時間内に処理すべき仕事の量(ノルマ)があったに等しいと言わざるを得ない。  」「夜勤作業は2人体制で、各人が積み上げ、包装、積み下ろし、運搬などの全部の作  業をこなさなければならず、その上、一定の作業量を遂行しなければ、限られたスペー  スに未処理の巻き取りが滞留することになるから、各人が適当に作業すればよいという  ような扱いが定着していたとは容易に想定できない。」と判示している。   この事実認定は、弁護団が、大日本印刷の働く仲間たちから何度も聞いた被災者の労  働実態が、充分に浮かび上がるものである。こうした認識に裁判官を至らしめることこ  そが、実は大切なことではないかと思う。   他にも事実認定の中で、同様な認定部分が一定存在するところではあるが、字数など  の関係で割愛する。 (被災者の業務内容の評価)   高裁の段階で、弁護団が主張したのは、被災者の具体的な業務内容の過重性である。   被災者は、50歳を超えてから、それまでの技術職から交替制勤務の包装業務という  肉体的に負担の大きい業務に移ったものであり、業務の過重性の判断に当たっては、被  災者の具体的な業務の質の面での過重性も十分に評価すべきとした。   高裁は、これを受けて、前述したように鑑定を採用し、    @被災者が従事していた本件業務は、重筋労働という評価がされるか。動的筋労作     と静的筋労作という分類からするとどのような評価がされるのか。    A本件業務は虚血性心疾患にどのような影響を及ぼすか。    B長時間労働、深夜交替制勤務を含む本件業務に従事をした被災者にはどのような     負荷があったと考えられるか。   という3点の鑑定事項を示した。   鑑定書は、鑑定の前提として示された事実関係のみを前提とするという厳格な鑑定態  度に貫かれており、極めて限定的且つ謙抑的な内容となっていた(と弁護団は感じてい  た。)が、具体的な文献及び研究結果に基づいて各鑑定事項に答える内容となっている。  (鑑定の内容についての詳細は、別の機会に両先生から示して頂くのが望ましいと思わ  れますので、詳細はふれません)。   高裁判決は、鑑定書(その引用するILOエンサイクロペディア等の文献)、日本産  業衛生学会循環器疾患の作業関連要因検討委員会報告書(1995年2月、以下単に検  討委員会報告書という)、の指摘する動的筋労作・静的筋労作と虚血性心疾患との関係  ・狭心症発作との関係を認定し、「本件業務は動的筋労作と静的筋労作が混在している  が、作業ACDは静的な負荷を特徴とししかも反復作業の要素も伴っている」と判示し  た。   そして、処分庁及びその立場の意見書を書いた澤田医師の「本件業務中に静的筋労作  に該当するものは含まれていない」旨の主張を、「オキュペーショナルエルゴノミック  ス」という文献を示して「採用できない」と明確に排斥した。   作業強度については、「動的な筋労作の要素と静的な筋労作の要素が組み合わさった  中程度の作業強度と判断できる」とし、前述したノルマについての判断をした上で、  「今日の医学的知見の水準及び内容」として「動的な筋作業でも静的な筋作業でも、心  拍数の増加、血圧上昇等の心肺機能反応を引き起こしやすく、特に静的な筋作業では、  筋肉の血液循環を止め、栄養物質や酸素の供給と筋肉からの排出物の排出が妨げられ、  疲労しやすくなり、心筋虚血を惹起する可能性が指摘されている」と判示した。   これらの判断は、本件が、時間外労働時間において月45時間は超えているが、70  時間を超えない、いわば、長時間労働時間数それだけでの過重性では、労災認定基準を  クリヤーしない事案において、その業務内容を分析し、過労死発症の機序となる内容が  ないかを検討することを必要性を示しているといえよう。 (被災者の急性心筋梗塞の発症と症状の評価)   高裁判決は、原審での吉中医師の証言と安原医師の証言及び澤田意見書を詳細に検討  し、原審での安原氏の証言を引用することまでもした上で「少なくとも不安定狭心症の  症状はかなり顕著な自覚症状及び他覚症状が出現するに至った平成2年1月ないしこれ  と近接した時点で発症したものと認めることが相当」と判示し、   「平成2年2月下旬頃、不安定狭心症の症状が小康状態にあったものと認められるこ  とに照らし、この頃、特段の負荷を受けなくても急性心筋梗塞が発症しうる程にその症  状が進行していたとは認め難く、これを認めるに足りる客観的証拠はない。」と判示し、  原審及び処分庁側の主張を明確に否定した。   更に、「準高脂血症」「準肥満」と言う原審及び処分庁側の主張に対して、「高脂血  症の概念に当てはまらない、肥満度は正常ないし過体重の範囲で肥満の定義に入らない。  本件において、急性心筋梗塞の発症に関連のある、業務外の危険因子の存在をうかがい  知ることはできない。」と明確に否定した。   これらの点は、実際は、地裁段階で明らかになっていたものであるが、地裁裁判官が、  業務起因性を否定するために、ある意味では、処分庁の主張に「乗った」面が強いので  はないかと思う。地裁判決のとってつけたような業務起因性を否定する論理の反転を思  うにつけ、地裁裁判長の資質と高裁判決の詳細で検討を重ねた判決の落差を感じる。   尚、関連して、澤田医師が「被災者は、冠動脈の動脈硬化性病変が高度であり、その  血管病変が自然の経過によって急性心筋梗塞を発症したものであり、被災者の筋労作が  どのようなものであっても急性心筋梗塞の誘発要因として労作は直接関係しない」とし  たことについても、そのように認めるに足りる証拠はないとして、別のところでの澤田  医師の意見をも引用しつつ否定していることも紹介しておきたい。   澤田医師は、本件以外にも、関西におけるかなりの裁判事例において意見書を提出し  ているが、その手法を分析し反論していくことは、当弁護団においても重要な課題であ  り、その点で、村上事件弁護団及び新宮医師より資料の提供援助を受けたことを紹介し  ておきたい。 (過重負荷の有無)   高裁判決は、専門検討会報告書、その中に引用されている、Sokejima氏らの  文献等及び「深夜業の就業環境等研究会中間報告」鑑定人である前原先生の「夜勤は循  環器にどの程度悪いのか」、本件鑑定書等を具体的に引用しているが、専門検討会報告  書の   「言うまでもなく、業務の過重性は、労働時間のみによって評価されるものではなく、  就労態様の諸要因も含めて総合的に評価されるべきものである。具体的には、労働時間、  勤務の不規則性、拘束性、交替制勤務、作業環境等の諸要因の関わりや、業務に由来す  る精神的緊張の要因を考慮して、当該労働者と同程度の年齢、経験等を有する者のほか、  基礎疾患を有するものの、日常業務を支障なく遂行できる労働者にとっても、特に過重  な身体的、精神的負荷と認められるか否かという観点から、総合的に評価することが妥  当である。」との見解を具体的に取り上げ認定していることは重要である。   そして個別的論点としての「血圧が正常値であったこと」について、深夜交代制勤務  者の夜間高血圧状況に関する文献及び吉中証言から、「血圧上昇が長期にわたってみら  れないからといって、本件業務による過重負荷が被災者に対し全く影響を及ぼしていな  いと見るのは相当でない。」「血栓の形成やプラークの破裂に関する近時の医学的知見  は、高血圧による者以外の経路によっても、粥腫の生成・増大、粥腫の破裂・崩壊、冠  動脈内血栓が生じうることを示唆している。」と判示し、澤田医師の主張してきた「正  常血圧であった以上、長時間労働や深夜交替制勤務による影響はない」との判断を明確  に否定している。   本件業務について高裁判決は   「夜勤を含む2交替勤務は、昼勤の後に夜勤が続く時は、昼勤を終えて通常に眠った  翌日の午後8時から勤務が始まる。それに備えて、昼間眠っておくことは困難であり、  睡眠を取らないまま夜通し働くことになる。また、夜勤明けの翌日に昼勤に従事する場  合には、夜勤明けで疲れていることから昼間眠ることになるが、このために夜の睡眠を  十分に取ることができなくなり、その状態で昼勤に従事することになる。このような勤  務形態は、生体リズムと生活リズムの位相のずれが大きいと言うべきである」とし、鑑  定を引用して「睡眠不足、疲労・過労状態を呈していた可能性が極めて大きい。」と判  示している。   その上で高裁判決は、夜勤明け日について原審及び処分庁が夜勤明け日を「休日」と  評価していることにつき、鑑定書が、「昼勤の翌日の『休務日』とは同じ扱いにはでき  ない。通常の夜勤者の生活パターンを見た場合、夜勤終了時までの眠気や疲労を取るべ  く、『夜勤明け日』の日中は昼間睡眠を数時間とり、そしてその余は定刻の夜間睡眠を  取るという対処・工夫で疲労回復を図っている」としていることを引用し、「妥当な見  時間数を活用することにより疲労は回復されていたと主張するが、被災者の従事してい  た就労形態は夜勤を含む2交替の変形労働時間制であり、容易に採用できない。」と判  示している。   尚、これらの判断の前提として、高裁判決は、鑑定書の「交替制勤務が日常業務とし  てスケジュールどおり実施されている場合又は日常業務が深夜時間帯である場合に受け  る負荷は、日常生活で受ける負荷の範囲内のものではなく、その影響も血管病変等の自  然的経過の範囲にとどまるというものでは決してない」(29頁)との判断を示してい  ることをふまえると、高裁判決は、この鑑定意見書の判断を採用し、「交替制勤務が日  常業務としてスケジュールどおり実施されている場合などについて、日常生活で受ける  負荷の範囲内のもの」との見解を否定しているといえよう。   こうした判断を前提に高裁判決は、   「被災者は、平成2年2月中は不安定狭心症の症状が小康状態であったが、3月5日  から3日間の昼勤の12時間勤務を行い、翌日から夜勤を2日連続し、そのころから体  調を崩してしまったにもかかわらず、十分に休息を確保できないまま、同月12日から  2日連続して夜勤を行った結果、同月15日に年休を取得したにもかかわらず、その程  度の休暇取得のみでは容易に疲労が回復し難いものになっていたと認めるのが相当であ  る。」と判示した。 (業務起因性)   高裁判決は、「本件業務を長時間継続したことが、不安定狭心症の発症と深く関連が  あると推認するのが相当である。被災者は、長年深夜交替勤務を含む本件業務に従事す  ることにより平成2年1月当時には、専門検討会報告にいうところの『疲労の蓄積』状  態ないしこれに近い状態にあったものとみられ、このような本件業務を長期間継続した  ことによる負荷要因が不安定狭心症の発症にも何らかの関与をしたもの(本件業務を恒  常的に長期間継続遂行したことが基礎疾患を自然的経過を超えて増悪させ発症させるに  至ったもの)と考えるのが相当である。」と述べた上で、「更に敷衍するならば、本件  の場合、被災者の年齢との対比でみた場合の本件業務の作業強度は軽作業の範疇に属す  るようなものではなく、しかも、被災者は、1日12時間拘束という長時間労働に服し  ていた上、深夜交替勤務という生体リズムと生活リズムの位相のずれが大きい労働への  従事を求められていたのであるから、被災者を雇用する使用者としては、被災者から明  示の申し出がないとしても、被災者の年齢に即応した勤務体制の変更を検討して適宜の  処置を講じたり、夜勤に従事させる場合であっても従業員の健康に格段に留意した対応、  具体的には当該従業員から申し出があれば交代要員の補充が容易になし得るような体制  を整えておくべき義務にあったにもかかわらず、これを怠っていたのであり、このよう  な作業環境が基礎疾患(不安定狭心症)の発症の要因になっている者と認められ、平成  2年1月ないしこれと近接した時点で発症した被災者の不安定狭心症は本件業務に起因  するものとして判断することが出来る。   しかも、不安定狭心症の状況が小康状態にあったことからすると、安静を保ち治療を  受けておれば不安定狭心症が自然的経過を超えて増悪して、直ちに心筋梗塞を発症する  という状態にはならなかった蓋然性が高いと推認することができる。それにもかかわら  ず、昼勤ではあるものの本件事故前日のみならずこれに引き続き翌日も連続して年休を  取ることはためらわざるを得なかったという事情に基づき、安静の機会を失う結果にな  ってしまい、その上に、本件業務による作業負荷が加わったことから、不安定狭心症を  増悪させて、急性心筋梗塞の発症を促進する結果となったもの、言い換えれば、本件事  故当日。本件業務とりわけ作業Aに従事しなければ急性心筋梗塞の発症を回避し得た可  能性があると解するのが相当である。」としている。やはり具体的事実を丁寧に主張立  証し、裁判官に迫ることの大切さを、感じるとともに、よく上告されずに確定したもの  だとの感を持つ判旨である。(ただこの判旨の具体的な普遍性としてどこまで一般的に  いえるのかは更に検討する必要があると思っている。)   こうした判断を前提にして、高裁判決はこうまとめている。   「以上の判断を総合すると、急性心筋梗塞に移行する危険性の高い疾病である不安定  狭心症を基礎疾患として有し、長期深夜交代制の勤務形態に服し、常態として負荷の大  きい業務に従事していて疲労の蓄積した被災者が、上記負荷の蓄積により本件事故前日  の年休のみでは疲労の回復ないし解消が得られていない(修復因子たり得ない)にもか  かわらず、本件事故当日休暇取得の申し出をしにくい状況の下で本件業務に従事したこ  とによって更に負荷の暴露を受けざるを得なかったことにより、長期間にわたって本件  業務に従事したことによる負荷の暴露と相俟って、勤務態様及び労働密度を含めたとこ  ろの、本件業務に内在する一般的危険性が現実化し、血管病変が自然的経過を超えて急  激に著しく増悪し急性心筋梗塞の発症を早めるのに大きく寄与したと推認するのが相当  である。」 5 教訓    第1に、何よりも中居さんの16年間燃やし続けた労災認定への想いと、それを支  えた大日本印刷の働く仲間の方々、何度も集会を開催し、署名や最終盤のはがき要請に  応えた西右京地区労の皆さん、それを後押ししてきた京都総評、しんどい時に励ましよ  り沿ってきた家族の会、全体をまとめ上げた職対連。高裁段階では、これに、大阪の仲  間の支援も大きく広がった。そういったこれまでに培ってきた京都労災職業病の取り組  みで示されてきたハートのある闘いが勝利を呼んだ。   第2に、多くの専門家の方々の協力アドバイスの存在である。   鑑定書を書いて頂いた上畑・前原両先生。地裁段階で証言頂いた吉中先生。吉中先生  も含め中央病院に勤務されていたDrには、高裁に向けての取り組みに向けても色々と  ご指導を頂いた。そして、高裁の裁判の流れの中で最終的には、提出に至らなかったが  、服部先生には、膨大な文献の検討も含め、高裁段階での弁護団の主張方針の確立に大  きなご指導を頂いた。   更には、最終準備書面提出に当たり、新宮先生にも、ご援助を頂いた。   本事件が、事実関係での争点が少なく、高裁における取り組みも、医学的な論争(澤  田医師意見書との関係)、労働科学上での論争において、弁護団の知識感覚だけでは到  底確信を持った対応ができない中で、裁判官が安心して判決がかける状況を作る上では、  こうした専門家の方々の対価を考えない献身的な協力が本当に大きな支えとなる。再度  誌上でもお礼を申し上げます。   第3に、やれること考えられることはやり尽くすと言うことで、視点を変えて、どう  したら裁判官の目を働く者の視点に寄り添わせることができるかを考えたことが上げら  れる。   高裁では、単なる医学論争に陥ることなく、労働実態とりわけ労働の質の問題につい  て検討し、分析を加え、被災者の労働実態に目を向けてもらうことを考え、一方で、専  門検討会報告、検討委員会報告などについてその趣旨を明確にし本件事案との関係を明  らかにすることにも留意した。 6 おわりに   取り急ぎまとめたものの、執筆しながら、ここの高裁の判断は、こういう主張とこう  いうことがあった等のエピソードが浮かび上がり、申請から16年間のことが浮かび上  がり、お世話になった方々の顔が浮かんできました。   教訓は、簡単に思うことをまとめ簡潔になってしまいました。様々な方のご指摘を頂  きながら、もう一度整理をする必要があると思います。   書けない教訓も一杯ありますし、書けない協力をして頂いた方もありますが、いずれ  にしても、本当に多くの方々の「ハート」の集まりが、この逆転勝利判決を勝ち取った  のだと思います。                        (平成18年5月16日記)