空飛ぶ弁護士のフライト日誌 京都法律事務所
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空飛ぶ弁護士のフライト日誌

空飛ぶ弁護士のフライト日誌ログ ─ DAY38:
彼女が髪を切ったわけ

                          機長:古川美和  前回に引き続き、大学4回生、最後の全国大会でのお話。  私は人生の中で1週間に3回、美容院に行ったことがある。それがこ の、全国大会直後の1週間だった。  全国大会での私の最終成績は、個人9位だった。出場選手は46名。 もちろん、決して満足のいく成績ではない。  当時出版された「月刊スカイスポーツ」97年6月号(いろんな専門 誌があるものだ。今は季刊になってるみたいだけど。)の学生選手権 (全国大会)特集記事には、こんな小見出しが付いていた。 いわく、「古川選手、痛恨の3月8日」。  続く記事には「オーストラリアで300Km、500Kmを達成した 大阪大の女性パイロット、古川選手は大会前から注目されており、3月 7日までは慶応大の中野(注:優勝者)、金子選手(注:準優勝者)と 競い合っていた。好条件の8日は周回をしたが、さらなる時間短縮を目 指してタイムトライアルに臨んだ。大会規定では離陸した時点で前回の 得点は0になってしまうので、周回できないと大きく順位を下げること になる。一発逆転を目指した古川選手だったが、結果は凶と出てしまい、 最終結果は9位に終わった。今後の活躍を大いに期待したい。」と綴ら れている。  そう、私は8日間の競技で5日目までは2位、その後3位と、一応優 勝争いをしていたのだ。  しかし、前回2回で書いたように、大会4日目のアウトランディング 後は調子を崩し、5日目には「煙に誘われて」サーマルを出てしまい、 周回できなかった。その変な感じが続いていたせいもあるだろう。3月 8日、私は賭けに出たのだ。  そもそも、私の阪大チームは同期のK原くんと2人で出場するはずだ った。が、何とK原くんが全国大会前に足を骨折してしまい、結局私が 1人で出場することになった。  1人で出るということは、団体成績はつかない。団体戦は、1チーム 3名までの選手が挙げた得点の合計がそのチームの得点となる。団体で 出ているチームは、最初の1人が得点を上げて(理想的には三角形のタ スクを1周回して降りるのがベスト)ランウェイに帰ってきたら、次は 原則として2番手が行く。2番手も得点して帰投してきたら、3番手が 上がる。つまり、1番手(この人が通常は「エース・パイロット」と呼 ばれる)がまだ気象条件が良くならない早い時間のうちに苦労して周回 してきたら、2番手(セカンド・パイロット)が一番いい時間に速いタ イムで周回し、まだ周回できる気象条件が残っているうちに3番手(サ ード・パイロット)につないで3人とも得点できる、というわけだ。  ところが、私のように1人で出ているチームは、3回上がる必要はな いので、条件が悪ければ無理して周回せず、あっさり降りて少しでも次 の発航順を早くし、一番良い条件のときに速いタイムで周回してくる、 という作戦が取れる。このタイミングの見極めも、運と実力のうちであ る。  しかし、何回も飛んでそのうち一番良い(つまり速い)周回タイムの 得点を取れる、というルールでは不公平だから、同じ選手が同じ日に2 回飛ぶときは、2回目に発航した時点でそれ以前に挙げていた得点は無 効になる、というわけだ。  3月8日、私は比較的早い時間にタスクを周回していた。でも、条件 がまだ渋かったので、その後の好条件の中で多くの機体がどんどん私よ り速いタイムで周って来だした。  さて、ここが考えどころである。実は、私は大会初日にも周回したが、 早い時間帯で周ってしまったので順位は振るわなかった。そのときちょ うど見に来てくれていた私が大変尊敬している5年上のOBが、「もう一 回上がれば(飛べば)良かったのに」と言っていたのだ。その記憶もあ って、3月8日の私は思った(思ってしまった)。「よし、2位とか3 位とかじゃ意味がない。どうせなら、優勝目指してもう1回飛ぼう!」  それでも、機体をラインナップ(飛ぶつもりで順番に付くこと)しな がら、次々に離陸していいく前の機体を見ながら、飛ぶべきか飛ばざる べきか、何度も逡巡した。  決定的だったのは「ピスチェン」だった。「ピスト・チェンジ」、つ まり風向きが北風から南風に変わったので、途中で発航するランウェイ が180度変わったのである。  そのとき、私の発航順は次2、3番目、というところまで迫っていた。 風向きが変わったということは、海風が入ってきたとか、前線が通過し たとか、とにかく気象条件はドラスティックに変わっているのである。  冷静に考えれば、今上がってももう条件は「終わっている」、つまり 周回できる可能性は低い、ということはわかるはずである。いや、私も 頭のどこかではわかっていた。わかってはいたのだが・・・飛んでしま ったのだ。何というか、捨て鉢というか、賭けてる自分に酔っていたの かもしれない。  飛び上がった空はまるっきりの静穏、つまり上昇気流のかけらもなく、 上がってそのまま降りてきた。その日の私の得点は0点。飛ばなければ 入っていたはずの700点だか800点(満点は1000点)だかは、 塵と消えた。  翌3月9日、最終日も、当然その差を挽回することはできず、私は 「夢は、終わった」とばかりに気の抜けたフライトを繰り返し、・・・ こうして私の学生生活最後の大会は幕を閉じたのだった。  全国大会が終わった後、私は空を見上げるのも辛かった。青いものを 見るのさえ嫌だった。大会の表彰式が終わった後、全国大会のあった埼 玉県の妻沼滑空場から、引き続いて千葉県関宿滑空場で行われる七帝戦 のため、クルーや他のメンバーは機体を関宿に運んで行った。  私も応援に行く予定だったが、失意の私は妻沼の最寄り駅である熊谷 駅前で、目に付いた美容院にふらふらと入り、ばっさり髪を切った。当 時背中まであったストレートのロング(と言ってものばしっぱなしにし てただけ)を、ショートカットにしたのである。  ・・・ところが。その出来が酷かった。パーマもかけてもらったのだ が、髪の毛が短めのベートーベンみたいになってしまい、とても人様の 前に出られる代物ではなかったのである。  それでも、気が弱くてとてもそうは言えない私である。そのまま文句 も言わずに店を出て、何とその日のうちにもう1件別の店を探し、髪を 切り直した。  結局これも気に入らず、仕方がないのであきらめて関宿にクルーとし て参加し、数日後大阪に戻ってから、行きつけの美容院に行き直して3 度目の正直をした。  これが世に名高い、「古川の3回切り」である。  いや、しかし、今でこそ笑って語れるが、当時は本当に切ない22歳 の春だったのでした。                        弁護士 古 川 美 和 




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