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患者の権利とは
最近、患者の権利オンブズマンというNPO法人の活動に参加をしていますが、最近思
うことをまとめてみました。
【要約】
患者の権利は、日本では明確に定めた法律はないが、憲法13条で保障されていると
考えられる。その中心は、自己決定権と、インフォームドコンセントである。これまで
医療従事者との付き合い方は、専門家の偉い先生の意見を聞き、それに従うという従属
的な上下の関係に基づくものだった。
しかし、個人はそれぞれ最高の価値を有するが故に平等である。そもそも人の職業と
いうものは、この世の中の役割分担の一つにすぎない。医療従事者ということだけで偉
いはずもなく、そこでの立場は患者や事件の依頼者と対等であるはず。同じ人間として
対等であり、お互い相手を尊重して理解しあい、一定の目的達成のために役割分担をし
ているだけ。こう考えることで、医療従事者と患者の関係が変わってくる。もちろんそ
こには、医療従事者の意識の変革と同時に患者側自身も盲目的な信頼で安心するのでは
なく、自分のことは責任を持って自分で決めるという自立した考え方を身につける必要
がある。医療従事者が患者を大切にすることは大切だが、逆に患者も医療従事者を人間
として尊重し、その個性を認め合うことが大切である。患者の権利の問題は憲法がもと
もと予定をしていた「人はそれぞれ最高の価値を持ち、対等の関係にある」ということ
が実践されていなかった医療の場面に置いて、そうした当たり前のことを実践していこ
うという話しである。
第1 はじめに
1.医療従事者と法律家
医師看護師などの医療従事者と弁護士などの法律家には、共通点がある。
ともに人の不幸を飯の種にしている。専門的知識の内容が素人にはわからずミスを
隠すことが容易である。だからこそより強い職業倫理が求められる。
どちらもエリートと見られていたにもかかわらず、近年様々な不祥事を起こして国
民の信頼を失いかけている。
第2 これまでの医療従事者と患者の関係
かつては、医療従事者と患者の関係について、医療従事者の方は「病気のことは専
門家である医療従事者に任せ、患者は黙って言われるとおりにすればよい。」患者の
方も「医療従事者に全てをお任せします。」というパターンだった。現在そうした関
係が崩れかけている。
第3 患者の権利とは
1.患者の権利の法律
患者の権利について明確に定めた法律はまだ制定されていない。しかし、明確に定
めた法律がなくとも、法律の上位法である憲法でそもそも認められていると考えるの
が一般的な考え方。
1994年 ヨーロッパにおける患者の権利の促進に関する宣言(WHO)
1995年 患者の権利に関するリスボン宣言 改訂(世界医師会)
2.患者の権利の内容
具体的にどのような内容を持つかについては定まった見解はないが、@自己決定権、
Aインフォームドコンセントを求める権利等がその内容として言われている。
(1)自己決定権とは
専門家である医師から十分な情報提供とわかりやすい説明を受け、自らの納得と自
由な意思に基づき自分の医療行為に同意し、選択し、あるいは拒否する権利。自分の
ことは自分で決められるという憲法13条から導かれる。
(2)インフォームドコンセントとは
患者が自分が受けようとする医療行為についていくつかの選択枝を含めた説明を受
け、それを十分に理解し、納得した上で、患者自らが自分に施される医療行為の選択
をするやり方のこと。
ただ、自分で決めろと言っても前提となる情報がなければ決められないので、前提
となる情報を十分に提供すべきというのがインフォームドコンセントである。
第4 患者の権利の悩ましい場面
1.自己決定権を行使する能力について
新生児、未成年者、先進描写、事故により意思表示が出来なくなったもののように
患者の意思決定能力がない場合、親権者などの法定代理人が本人に代わって自己決定
権を行使する場合がある。そうした場合は他人が行うこともやむを得ない。しかし、
患者に代わって最善の医療は何かを考え、選択する人が必要。また、患者が本当に自
己決定できない状態にあるかどうかは慎重に判断されなければならない。
2.末期医療と患者の自己決定
患者の自己決定と医療の問題でもっとも難しい問題が「安楽死」「尊厳死」である。
(1)昭和37年12月22日名古屋高裁判決
ア 事案の概要
愛知県のある町で農業を営む青年(当時24歳)の父(当時52歳)は昭和31年に脳溢
血で倒れ,昭和34年再出血を起こして半身不随になり,上下肢は屈曲位で固定され,
少しでも動かすと激痛が走るようになった。しゃっくりの発作も起こり,「苦しい,
殺してほしい」と家族に訴えるようになった。昭和36年夏家族は主治医から「おそら
く後7日間か,それとも10日間くらいの命だろう」と告げられた。父親の苦しむ様子
を見て,この苦痛から解放することが最後の孝行になると決意した青年は,自宅に配
達された牛乳瓶の中に有機リン殺虫剤を混入し,事情を知らない母親がその牛乳を飲
ませたため,死亡し,青年は尊属殺人の罪に問われた。医療の場面ではないが、安楽
死が初めて裁判で問題となった事案。
イ 昭和37年12月22日名古屋高裁判決
名古屋高裁は、以下の5つの要件が全て満たされた場合は罪に問われないとして
「安楽死」が認められる余地を残した。もっとも、本件では、その要件を満たさない
として懲役1年執行猶予3年の有罪判決を下した。
@現代医学では不治で死が目前に迫っている
A病人の苦痛がだれからも見るに忍びない
B苦しみから救うことが主な目的である
C本人の真剣な頼みや同意がある
D特別な事情を除き医師の手により方法が倫理的に妥当
(2)東海大安楽死事件
ア 事件の概要
1991年4月患者の家族から「これ以上見ているのはつらい」、「全ての治療を
中止して欲しい」と要請され、昏睡状態にあった患者に対する積極的治療を中止し、
さらに家族から「早く楽にしてください」と懇願されたため、塩化カリウムを静脈注
射して患者を死亡させた。そのため、医師が殺人罪として起訴された。医療の現場で
末期患者に対してとられた医師の処置が適法な安楽死に当たるかどうかが問われた初
めてのケース。
イ 平成7年3月28日横浜地裁判決
患者本人の意思が全く介在していなかった本件はそもそも安楽死に当たらないとし
て殺人罪を適用し懲役2年執行猶予2年とした。
ウ 検討
本件では、患者は昏睡状態にあったため本人の意思は不明であった。また、昏睡状
態であったので、苦痛に絶えきれないという状況でもなかった。患者には末期癌であ
るという告知がなされていなかった。
以上から、自己決定という観点から見ても、本件は、問題のあるケースであった。
(3)諸外国の状況
尊厳死を求める権利は1981年の世界医師会総会におけるリスボン宣言において
も「患者は尊厳をもって死を迎える権利を有する」として確認され、米国においては
少なくない州で尊厳死法あるいは自然死法として立法化されている。根拠とされてい
るのは自己決定権の思想である。
3.輸血と宗教(自己決定)
(1)エホバの証人信者の両親による輸血委任仮処分申請事件
ア 事案の概要
Yは右足を骨肉腫に犯され、入院中であるが、医師が患部を切断し、骨肉腫の転移
を防いだ方がよいと判断した。Yも手術を希望したが、宗教上の教義に基づき、輸血
についてはこれを拒否したため、手術が行われない状況となった。Yの親Xは、Yの
親としてYのかわりに輸血等の行為を委任することが出来る旨の仮処分を申請した。
エホバの証人による輸血拒否についての初めて唯一の裁判例である。
イ 昭和60年12月2日大分地裁決定
「Yは精神状態や判断能力において、特に痛常人と異なるところはなく、正常であ
る。」「個人の生命については、最大限に尊重されるべきものであり、社会ないし国
家もこれに重大な関心をもち、個人において、私事を理由に自らの生命を勝手に処分
することを放任することができないことはいうまでもない。しかし、本件においては、
Yは輸血を拒む以外切断手術を含む他のあらゆる治療を受け、その完治、生命維持を
強く願望しているのであり、治療方法としても、放射線療法や化学療法など他の方法
も存在することに鑑みると、本件輸血拒否行為を単純に生命の尊厳に背馳する自己破
壊行為類似のものということはできない。」として申請を却下した。
ウ 検討
1985年、川崎市における交通事故にあった10歳の少年が両親の輸血拒否によ
り死亡した事例を巡り激しい論争があった。また、1996年には、鹿児島県で妊婦
が輸血拒否をし、死亡した事例があった。当初医療の世界でもとまどいがあったよう
であるが、最近では一般的に輸血拒否を患者の意思として受け止め、代替的医療につ
とめるとか、エホバの証人の系統の医療機関への移送といったことも軌道に乗ってい
る。本人が幼少とか意識不明であるが、親が自己の信仰に基づいて、子供への輸血を
拒否する場合、親が自己の信仰による拒否を貫くことは許されないであろう。本人に
意識はないが輸血を拒否する意思を従前明らかにしていたような場合は家族の意志を
確認して決すべきであろう。
(2)平成10年2月9日東京高裁判決
ア 事案の概要
Aは悪性の肝臓血管腫と診断された1992年6月、エホバの証人の信者の医師か
ら、東大医科研を「無輸血手術をする病院」として紹介された。Aと家族は同年9月
に手術を受けるに際して、信仰上の理由から輸血はできないと医師に伝えたが、医師
は手術時に出血性のショック状態にあったことを理由に輸血を行った。当時余命1年
とみられていたAは、手術後約5年たった平成9年8月に死亡した。Aは同意を得ずに
無断で輸血を行ったことに対し、精神的な苦痛を受けたとして提訴をしたが、東京地
裁は、Aの請求を棄却し、Aが控訴をしていた。
イ 平成10年2月9日東京高裁判決
「今回のような手術を行うに際しては、患者の同意が必要であり、それは尊厳死を
選択する自由も含めて、各個人が有する自己の人生のあり方は自らが決定するという
自己決定権に由来する」「医師団は場合によっては輸血をして手術を行う必要が出て
きたと判断した時点で、輸血を行うことを説明すべきだった」「医師には、ほかに救
命手段がない事態になれば輸血する、という治療方針の説明を怠った違法がある」と
判断し、Aの請求を認めた。
ウ 検討
日本医師会の生命倫理懇談会は1990年、輸血をしないことを条件にした手術を
行うこともやむを得ないとする見解を示した。患者の意思を尊重して緊急時でも輸血
しないとの見解を発表した医療機関も、少なからずあった。高裁判決は、こうした医
療現場の動きに沿うものと言える。患者の自己決定権から同意の必要性を導き出した
判決は、さらに踏み込んで、「人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまで
の生き様は自ら決定できる」として、「尊厳死を選択できる自由をも持つ」との判断
も示した。
4.病名告知(インフォームドコンセント)
がん告知については、消極的な意見を持つ医療従事者がいるがこれについては、ど
う考えるべきか。
(1)最高裁平成7年4月25日判決(告知をしなかった)
ア 事案の概要
昭和58年3月E医師は、Aを診察し胆嚢癌を強く疑い入院させて精密検査の必要
があると考えた。しかし、告知による精神的打撃と治療への悪影響をおそれて、Aに
説明しなかった。Eは事実と異なる胆石がひどく胆嚢も変形して早急に手術をする必
要があるとAに説明し、入院指示をしたが、Aはこれを拒み旅行後入院することを主
張した。旅行後も、Aは入院を延期していたところ、胆嚢癌が悪化し、6月に胆嚢癌
と正式に診断され、12月に死去した。遺族はEが正式な病名を告げなかったことが
診療契約違反であるとして提訴した。
イ 最高裁平成7年4月25日判決
昭和58年当時医師の間では、癌については真実と異なる病名を告げるのが一般的
であった。Aへの精神的打撃と治療への悪影響を考えて、癌の疑いを告げず、重度の
胆石症と説明し、入院させようとしたのはやむを得ない措置であり不合理とは言えな
い。診療契約違反とは言えない。
(2)昭和58年5月27日名古屋地裁判決(告知をした)
ア 事案の概要
Aは昭和48年5月癌の肺転移がわかり、家族はAに病名を知らせないことを希望
していたが、医師はこれをAに伝えた。その後、Aは、同年10月24日に死亡した。
遺族は医師が不必要に癌の告知を行いAに精神的ショックを与えたとして提訴した。
イ 昭和58年5月27日名古屋地裁判決
「医学上、癌患者に対し、その病名を知らせることの適否については、医学専門家
の間でも見解が別れており、場合によっては告知する方が治療面の効果もあるとする
積極論や患者への心理的悪影響を配慮してこれを隠した方がよいとする見解のあるこ
とが認められる。」「実際の臨床の場においては、各患者ごとに担当医師がその心理
的影響を十分に配慮し、これを決すべきものであり、そのいずれをとるかは治療上の
裁量にゆだねられているというべきである。」として遺族の主張を認めなかった。
(3)検討
ヨーロッパにおける患者の権利の促進に関する宣言では、「患者は容態に関する医
学的事実を含めた事故の健康状態、提案されている医療行為及びそれぞれの行為に伴
いうる危険と利点、無治療の効果を含め提案されている行為に代わり得る方法、並び
に診断、予後、治療の経過について、完全な情報を提供される権利を有する。」とさ
れている。つまり、病名ががんであっても、完全な情報を伝えることがまず原則であ
る。もっとも、例外的に「情報は、その提供による明らかな積極的効果が何ら期待で
きず、その情報が患者に深刻な危害をもたらすと信ずるに足りる合理的な理由がある
ときのみ、例外的に、患者に提供しないことが許される」とされている。ここでいう
患者に深刻な危害をもたらす典型例は自殺であろう。しかし、単なる危惧感だけでは
足りないと考えるべきである。
ex日本医師会も「がんの病名については、患者に衝撃を与え希望を失わせて悪い
影響を及ぼすから告知すべきでないとされ、これまで長い間、医学教育のうえでもそ
う教えられていた。しかし、自分の運命については自分で知り自分で考えたいという
自己決定につながる考え方が広がってきているので、医師の対応も代わっていく必要
がある」「この告知は、その後の治療の方法を考えあわせるとインフォームドコンセ
ントの問題の一部である。まず、病名については原則として患者本人に告知すべきも
のと考える」(「末期医療に臨む医師のあり方」に関する報告1992年3月)
他方で、1994年4月1日付日本医師会副会長を含む座談会では、「インフォー
ムドコンセントという概念が入ってきて、一時、何でもがん告知をしたほうがよいの
ではないかという風潮があって…まず信頼関係を作り上げるためにコミュニケートす
るというレベルになかなかならないのです。…ただ告知するというだけで、その後ど
う治療し、ケアするかという内容と問題点も、前もって信頼関係がなくて十分に話し
合えないままやっているというケースが非常に増えているわけです」と述べ、インフ
ォームドコンセント論が無責任告知とも言うべき状況をもたらしていると批判してい
る。
第5 患者の権利を認めることの意義
患者の権利を認めることは医療従事者の負担を増やすことになるだけだという議論
があるが、そうであろうか。むしろ、患者の権利自体憲法13条により保障されるも
のであり、患者の権利を認めることによる意義を積極的にとらえていくべきである。
1.患者の権利を認めることの意義
患者の権利を認めることで、これまで医療の客体に過ぎなかった患者に主体として
の地位を与え、患者が自分のことを自分で決められるようになる。
2.医療従事者にとって
医療従事者にとっては、患者に主体性を認め医療従事者と対等な関係であることを
承認することで最適なパートナーを得ることになる。すなわち医療行為は患者の体を
一番良く知っている患者本人からの情報が無ければ成り立たない。そして、そうした
患者と医療従事者が対等な関係に立つことで、患者の十分な納得と協力の下で医療を
行うことでよりよい効果を上げることが出来る。
3.患者にとって
患者は自らの生き方を主体的に選択することが可能になる。
第6 まとめ
今は患者のことを「患者様と呼びましょう。」とか「患者様は私たちより上です。
私たちは下です。」というのが主流になってきている。「患者様と呼ぶ運動もある。
」それ自体が悪いということではない。しかし、そうした呼称の問題は形式的なもの
にすぎない。
これまで医療従事者や法律家との付き合い方は、専門家の偉い先生の意見を聞き、
それに従うという従属的な上下の関係に基づくものだった。
しかし、憲法13条のところで話しをしたように、個人はそれぞれ最高の価値を有
するが故に平等である。
そもそも人の職業というものは、この世の中の役割分担の一つにすぎない。ある分
野に置いて専門家であっても、別の分野に置いては全くの素人であり、教えを請う側
に回らなければならないことは言うまでもない。
医療従事者や法律家ということだけで偉いはずもなく、そこでの立場は患者や事件
の依頼者と対等であるはず。同じ人間として対等であり、お互い相手を尊重して理解
しあい、一定の目的達成のために役割分担をしているだけ。こう考えることで、医療
従事者と患者の関係、法律家と依頼者の関係が変わってくる。
もちろんそこには、医療従事者の意識の変革と同時に患者側自身も盲目的な信頼で
安心するのではなく、自分のことは責任を持って自分で決めるという自立した考え方
を身につける必要がある。
医療従事者が患者を大切にすることは大切だが、逆に患者も医療従事者を人間とし
て尊重し、その個性を認め合うことが大切である。患者の権利の問題は憲法がもとも
と予定をしていた「人はそれぞれ最高の価値を持ち、対等の関係にある」ということ
が実践されていなかった医療の場面に置いて、そうした当たり前のことを実践してい
こうという話しである。
弁護士 黒 澤 誠 司
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