1. ブログ マチベンの日々

ブログ マチベンの日々

北アルプスの遭難事故、多発

ネットニュースを読んでいると、今年は北アルプスでの遭難が例年より多いような気がして、少し気になっていた。

 

実際、長野県警山岳安全対策課のまとめによると、今年(1~8月)の県内の山岳遭難者数は昨年同期比56人増の303人、山域別では北アルプスが全体の65%を占め、そのうち槍穂高連峰は29%の57人だった。

 

遭難原因についても、「足がつって歩けなくなった」「転倒して歩けなくなった」など、滑落のような事故と比べると軽度の事故の報道も目立ち、なんだか例年と違うような気がしていた。

そんな感じを裏付けるように、「信州まつもと山岳ガイド協会やまたみ」によると、近年SNSやYOUTUBEを見て、「自己流」で登山する人が増え、安易に難度が高いコースに挑んだ結果、救助になるという例もあると言うことを知った。

 

そこで、環境省中部山岳国立公園管理事務所は、9月13日から、北アルプス上高地から入山し、槍穂高連峰などの高山帯を目指す人については、横尾にゲートを設け、登山者に装備や体調、マナーの確認を促す実証実験を始めるという。ゲートは初の試みで、期間は10月13日まで。

 

登山は死に至る危険性を常に伴っている。

登山する場合には、自分の体力はもとより、荷物の重さ、持参する水分の量、天候、時間などなど、あらゆる事柄に気を配ってほしい。

 

 

今夏、久しぶりの山小屋3泊の山旅をした。

 

2013年に日本百名山を完登し、コロナ明けの2023年からは、「北アルプスをつなぐ」を1つの登山目標とした。

「北アルプスをつなぐ」というのは北アルプスの山々を「線」で(実際に歩いて)つなぎ、いまだ歩いていない所を歩くこと。

ということで、2023年夏に栂海(つがみ)新道(親不知から朝日岳)を、2024年夏に針ノ木岳サーキット(針ノ木岳から種池山荘・爺ヶ岳)をつないだ。

そして今夏は、常念岳から槍ヶ岳までをつなぐ尾根でこれま歩いたことがなかった「東鎌尾根(ひがしかまおね)」を歩くことをメインの目標とした(常念岳も槍ヶ岳もどちらも前に登頂経験あり)。

 

行く前に、既に東鎌尾根を歩いたことがある山仲間に「今年は東鎌尾根に行く」と言うと、皆、なんとなく不安そうな顔をして、「あそこは緊張する」などと言って、誰からも「村松さんなら大丈夫」とは言ってもらえなかった。東鎌尾根は、「鎌尾根」と言われるだけあってヤセ尾根で、道の両側が切れ落ちていたり、何十段ものハシゴがいくつかあったりする厳しいルートである。

その上、今年の猛暑。近場の低山に登ってトレーニングする気力もなく、涼しい朝に鴨川辺りを歩いたり、冷房のきいたジムでベルトの上を歩いたり走ったりするのが精一杯だった。

そのため、「歩き続けられるだろうか」という大きな不安を抱えての山行きとなった。

 

1日目は、中房(なかふさ)温泉から「燕山荘(えんざんそう)」まで合戦尾根を登る。標高差約1200m。

合戦尾根は、早月尾根、ブナ立て尾根と並ぶ北アルプス三大急登の1つである。

若い頃には3回登ったこともあり、勝手知ったる尾根と言えど、最初から急登の連続。コースタイムが4時間20分のところ、若い頃は、3時間台で登ったが、今回は、約5時間もかかった。

途中にある合戦小屋の名物のスイカは健在で、一切れの大きさは以前より小さくなっていたが、スイカを食べると生き返った気がした。

 

 

燕山荘着後、燕岳(つばくろだけ、2762.9m)まで往復する。

翌朝の燕岳。

 

 

2日目は、燕山荘から大天井岳(おてんしょうだけ、2923m)を経て、「ヒュッテ西岳」まで。歩行時間は約8時間半。

大天井岳山頂。槍ヶ岳があんな遠くに。明日は、あそこまで歩く!

 

 

3日目、いよいよ今日が東鎌尾根を歩くメインの日だ。ストックは使えないので出発時からリュックに収め、ヘルメットをかぶって出発する。水俣乗越までど~んと下り、そこから今度はヤセ尾根を登り返す。何十段もの鉄梯子を慎重に上ったり下りたりする。緊張の連続だ。

そして、なんとか今宵の山小屋「ヒュッテ大槍」に到着する。

荷物を軽くして、いよいよ東鎌尾根の最後のルートを槍ヶ岳(3180m)に向かう。ここからも気が抜けない危険なルートだ。

 

東鎌尾根から見る槍ヶ岳。ここから見る槍ヶ岳が一番美しいとのこと。

 

 

槍ノ肩にある槍ヶ岳山荘に到着して一息ついた後、山頂を目指す。

槍ヶ岳には何回か登っているが、気は抜けない。ペンキ印に従って慎重に登っていく。

そして登頂!360度の展望。

今日までの3日間、長い道のりを経て山頂に至り、東鎌尾根を歩き通せた達成感で感慨もひとしおだ。

 

4日目早朝。小屋から、日の出と槍ヶ岳のモルゲンロートを見る。

 

 

4日目は、槍ヶ岳から上高地まで一気に下る。

とにかく、よく歩いた。こんなにも長い距離を歩けるって、人間の足ってなんと凄いものかと驚嘆する。

でも1週間経った今も、まだ足がなんとなく痛い。

 

さあ、次は、どこの山へ・・・?

 

 

 

 

 

 

 

防災研修

2025年8月26日夜、京都弁護士会の災害対策委員会主催の防災研修を受けました。

 

今回の防災研修は、外部講師をお招きして、という内容ではなく、自分たちで災害用備品を実際に使ってみようという研修でした。

我が自宅に、災害用備品が完備しているわけではありませんが、とりあえず非常用トイレは持っています。でも、使用したことはありません。

以前、新聞記事に試しに使ってみた方が良いと書かれてありましたが、やはり実際に試したことはなく、今回の研修を試してみる絶好の機会と考えました。

 

参加者が3つのグループに分かれ、それぞれ課題が与えられ、それを1つ1つクリアしていきます。

例えば、

非常用トイレについては、コーヒーを薄めた液体を流して試してみました。やはり、使用方法をわかっていないと、戸惑ってしまいます。

手でハンドルを回して使うラジオは、会場が地下だったせいか、電波が受信できませんでした。後で、たまたまネットを読むと、手回しラジオよりは、電池型ラジオの方が良いと書かれてありました。

最後に、皆でアルファー米を食べました。これは、お湯なら15分、水なら60分でふっくらご飯を食べることができるというものです。私は、登山で利用したことがあるので、食べたことはありました。久しぶりに食べましたが、美味しかったです。

 

参加して、少し勉強になりました。

 

 

 

 

 

 

NHK朝ドラ「あんぱん」で、俳優妻夫木聡が演じている「八木信之介」。

戦時中は八木上等兵、戦後は九州コットンセンターを設立してビーチサンダルなどを販売している。

 

そのモデルは、山梨シルクセンターの社長辻信太郎氏である。

山梨シルクセンターは、のちに社名をサンリオと変え、ハローキティをはじめとする世界的なキャラクターを生み出すことになる。

辻氏は、キティーちゃんの生みの親だったのだ。

史実としては、たかしが辻氏と出会ったのは、戦後の1965(昭和40)年。たかしが辻氏から、お菓子のパッケージのデザインを依頼されたことから始まる。

辻氏は、1927(昭和2)年生まれ。たかしより8歳年下だった。知りあった当時、辻氏の会社には社員は数人しかいなかった。

その後、文学青年だった辻氏は、日常の言葉で書かれたシンプルきわまりないたかしの詩に強く心惹かれ、社員や銀行の反対を押し切って、出版部を作り、1966年9月たかしの初の詩集「愛する歌」を出版する。

 

ここらあたりまでが、今週の「あんぱん」の放送予定だろうか。

 

辻さんは、「人が殺し合っていいことはなく、間違っているんです。戦争してもしかたないなんてことはありえないんです。人と殺し合うことはやめないとだめなんだと大きい声で世界に向かって言ってほしいと作ったのが、ハローキティなんです。キティは仲良しのシンボルなんです」と語っている。

 

キティちゃんには、そんな素敵な思いが込められていたんですね。

 

その後も、たかしと辻氏の関係はどんどん深まっていく・・・・今後の朝ドラの展開も楽しみですね。

天気予報は、国家秘密だった

天気予報が国家秘密だった!?

 

台風などの時だけでなく、日々、何気なく、確認する天気予報。

私たちにとっては、とても身近で、なくてはならない情報である。

そんな天気予報について、弁護士になってまもない頃の国家秘密法制定反対運動の中で、太平洋戦争中「軍事機密」とされ、報道が禁止されていたことを知った。

 

1941年12月8日の真珠湾攻撃を境に、気象情報は軍事機密とされた。

軍の管制から復活したのは、80年前の1945年8月22日。

太平洋戦争中の3年8ヶ月の間、国民向けの天気予報はテレビやラジオから消え、気象台の職員は、戦争の作戦を練る上での情報を軍に提供するため、観測を続けた。敵国に漏れないよう暗号化して軍などとやりとりされた。

台風の情報さえ提供できず、1942年8月西日本を襲った周防灘台風では死者・行方不明者が1000人以上になった。

人命や安全は二の次だった。

 

「天気予報」は、まさしく平和のシンボルである。

富士山の山頂から登る朝日・・・このダイヤモンド富士と呼ばれる絶景を自分の目で1度見たかった。

 

数年前の年末、山梨県の竜ヶ岳に登って山頂からダイヤモンド富士を見るツアーがあることを知り申し込んだが、あいにく大雪となり、直前キャンセルした。

そんな折り、友人から、静岡県の田貫湖(たぬきこ)の湖畔からは、4月と8月にダイヤモンド富士が見られるという話を聞き、山仲間らと今年4月21日に田貫湖に出掛けた。しかし、22日23日両日共、悪天候で、富士山の姿すら見えず。

 

そこで、8月の今回、リベンジ旅行となった。天気はここ数日、毎日晴れ予報だが、心配なのは、雲の動き。

8月19日は午前4時起床。午前4時半頃から、空が白んでいくにつれて、薄暗い中に富士山のシルエットが徐々に浮かび始めた。湖畔には既にいくつものカメラの三脚が並んでいる。午前5時15分頃からは、湖畔で、三脚の隙間を狙って陣取る。少しでも場所を離れようものなら、すぐに誰かがその場所を押さえてしまうので動くこともできず、ひたすら同じ場所でジッと待つ。シャッターチャンスは数秒だと聞かされる。

午前6時2分頃から山頂付近が徐々に金色になり始め、6時6分にはダイヤモンド富士が顔をみせた。素晴らしい!

 

 

逆さ富士も映っている。でも、肉眼の方がもっと美しい。

アッという間に太陽がまぶしくなり、見ていられなくなる。

本当にほんの数秒の絶景だった。

 

 

映画「黒川の女たち」を観て

昨日は、満洲のことを考える1日となった。

これまで当ブログでも何回か書いたが、私の父は、1924(大正13)年に旧満洲で生まれた。父の生前、満洲時代の話をほとんど聞いていなかったので、私にはその悔いから「満洲」には特別な思いが今でもある。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2022/08/6282.html

 

昨日(2025年8月16日)付け読売新聞朝刊1面・7面の「戦後80年/昭和百年 家族の記憶」には、作家新田次郎(本名:藤原寛人)さんと妻ていさん、そして二男で数学者の藤原正彦さんと妻美子さんのことが書かれていた。

藤原ていさんが満洲引き揚げ時の壮絶な体験を書いた「流れる星は生きている」を読んだことがあり、記事を読んで、引き揚げ後の家族の姿も含めて、あらためて戦争が家族の姿を変えてしまうことを痛感した。

 

そして午後は、新聞に紹介されていたので前から観に行こうと思っていた映画「黒川の女たち」を京都シネマに観に行った。

映画を観て知ったのだが、「黒川」というのは、私の出身地である岐阜県の地名だった。

岐阜県加茂郡白川町黒川。飛騨の白川ではなく、美濃にある白川である。

 

その黒川の村から、国策であった満蒙開拓団として約500名以上の村民が満洲に渡った。

日本の敗戦が色濃くなった1945年、守ってくれるはずの関東軍は南下してしまい、残された開拓民は、侵攻してくるソ連軍に助けを求めることを決め、その見返りとして、未婚の18歳以上の女性15人を「性接待」として提供した。その中で亡くなった女性もいた。深く傷ついた女性たちは、帰国後ふるさとに戻ってからも差別と偏見の目にさらされた。

長い間沈黙を守ってきた女性たちだったが、「なかったことにはできない」と2013年についに重い口を開いた。

 

私は、終戦後、満洲引き揚げ前に、このような壮絶な史実があったことを全く知らなかった。

勇気を持って語り始めた当事者女性たち、そしてそれを受け止めた家族や遺族たち。

戦時下の性暴力は「戦争なのだから仕方がない」と語られることがあるが、その支配の構造は、男性優位の社会の中で、現在の私たちの生活に続いているのではないだろうかと思う。

映画の中に、「内なる加害」を犯した男性らの言葉がなかったのが残念だった。

 

白川町にある佐久良太神社には、1982年に「乙女の碑」が建立された。だが、その時は何の説明文もなく、2023年になって、過去を語る碑文ができたとのこと。

 

是非、一度、訪れてみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏山登山~中央アルプス・三ノ沢岳~

今夏の登山は、8月初め、中央アルプス・三ノ沢岳(2847m)に向かった。

登山をする人からも「三ノ沢岳ってどこの山?」と聞かれるほどマイナーな山。

 

実は、私にとって、三ノ沢岳はリベンジ登山だった。

2018年8月、同年5月にガン宣告された亡夫が計画してくれて一緒に登ったが、あいにくの天候悪化で、山頂直下のケルンで引き返した。だから是非、登頂してみたかった。今回は、山仲間3人が同行してくれた。

 

三ノ沢岳は、中央アルプス・宝剣岳から西へと派生する支尾根上の独立峰的存在の山で、直登するコースはない。

駒ヶ岳ロープウェイで千畳敷カールまで上がり、そこから左に進み、主稜の極楽平まで登り、三ノ沢分岐からは三ノ沢岳を正面に見ながら下り、その後はアップダウンを経て、山頂に至る。帰りは往路を戻る。

 

まず、問題は、ロープウエイの終点の千畳敷駅に何時に到着できるかということだった。夏山登山の真っ只中、千畳敷カールまで行くには、バスに乗ってしらび平まで行き、そこからロープウェイで千畳敷まで上がる。そのルートは、人気の宝剣岳や木曽駒ヶ岳に登る登山者や千畳敷カールで過ごす観光客がたくさん利用する。始発のバスは午前6時15分だが、何時のバスに乗れるかがその後の行動にとても影響してくる。

 

順番待ちをすべく、朝、午前4時半に、バスターミナルに到着する。

 

 

既に、私たちの前には、バス待ちのための約70個のリュックが置かれていた。

午前6時10分頃に臨時バスが2台出て、幸い私たちはその2台目に乗ることが出来、午前7時には千畳敷駅に到着することができた。

 

 

私たちは駒ヶ根神社の前を左方向に進み、極楽平まで登る。ここまで登り切ると、目の前に三ノ沢岳の優美な三角錐が目に飛び込んでくる。独立峰的存在なので、その姿はとても美しい。

また今日は快晴なので、周囲の山々をすべて望むことができる。

更に、三ノ沢分岐まで進む。ここから宝剣岳へは真っ直ぐ進み、三ノ沢岳へは左へと進んで行く。

 

 

2880mの三ノ沢岳分岐から、三ノ沢岳を正面に見ながら、最低鞍部(2650m)まで下り、そこからアップダウンを経て、また山頂まで急坂を上り返す。登山道ははっきりしているが、狭く、しかもハイマツが繁って時々足にあたって痛く、歩きにくい。でも、眺望は抜群だ。

 

ようやくケルンに至る。

 

 

前回はここまで来たが、ガスでほとんど何も見えなかった場所。

やがて山頂に到着する。山頂は狭いが、360度の素晴らしい展望。

後方は御嶽山。

 

 

リベンジ登山が実現できて良かった!

最近、NHKはドキュメンタリーやドラマなど、優れた番組を作っているなあという実感がある。

2025年8月8日午後11時25分からNHKBSで放映された「原爆裁判~被爆者と弁護士たちの闘い~」もそうだ

 

「原爆裁判」は、NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルとなった三淵嘉子さんが裁判官として実際に関わった裁判で、「虎に翼」にも登場した。

「原爆裁判」は、アメリカによる原爆投下は国際法に違反するので、その受けた損害の賠償を日本政府に請求した裁判で、原告被爆者5人によって1955年4月に東京地裁と大阪地裁に提訴され、2つの訴訟は東京地裁に併合され審理され、8年後の1963年12月7日判決が言い渡された。

 

過去の著明な裁判の1つだが、私は、大学で教わった記憶もないし、司法試験の受験勉強の中で憲法判例として紹介されてもおらず読んだこともなく、「虎に翼」を観て初めて知った。

 

今回のドキュメンタリーは、「原爆裁判」提訴にあたった岡本尚一弁護士や原告となった被爆者川島登智子さんらに焦点をあてて描かれていた。

 

岡本尚一弁護士は、1892年生まれ、提訴時の1955年は63歳、提訴3年後66歳志半ばで他界されている。

いつの時代にも優れた活動を行う弁護士がおられ、私などはとうてい足元にも及ばないといつも思っている。

岡本弁護士は、終戦後10年も経っていない時に、原爆裁判の法的な理屈を検討し、アメリカを被告にできないかとまで考えられた。「この提訴は悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けることだけではなく、原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるであろう」との檄文を多くの弁護士に送って共同を呼びかけたが、それに応えたのは松井康浩弁護士だけであった。

 

いくら崇高な目的を持った裁判でも、当事者原告が存在しなければ裁判は始まらない。

岡本弁護士の思いに応えた原告は5人。世間の視線が偏見と差別にとらわれている場合もあり、被爆者であること自体を隠したい人が多くいる中で、5人は原告となった。

その中に、今回ドキュメンタリーで取り上げられた川島登智子さんがいた。提訴時24歳。

NHKの金子麻理子ディレクターはご遺族を探し出し、娘時田百合子さんにたどりついたが、時田さんは母親が「原爆裁判」の原告であったことを知らなかった。登智子さんは、なぜ原告になったのか、また、なぜそれを一言も語らなかったのだろうか。番組は、訴状の中で名前が出てくる登智子さんの妹詔子(のりこ)さん(被爆後養女に出された)を訪ねたが、詔子さんも裁判のことは全く知らなかった。

 

それぞれの原告には、私たちの想像を超える人生がその後も続いた。

 

1963年12月7日に言い渡された「原爆裁判」の判決については、以前の私のブログで紹介したとおりである。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2024/09/6895.html

 

ただ、判決は、原告代理人であった松井康浩弁護士が語ったとおり、「被爆者としては、政治の貧困を嘆かれても現実の救済にならないのであって、裁判所から見放されては、もはや救われないものであ」った。

そして、その後のたゆまぬ反核運動の中で、2021年、世界でやっと「核兵器のいかなる使用も武力紛争に適用される国際法に違反する」という核兵器禁止条約が発効した。ただ、日本政府は未だにこの条約を批准していない。

 

原爆投下から80年経った現在、そして世界で紛争が続く現在、あらためて平和を考える機会となった。

 

 

 

 

長く京都に住んでいるので、色々な祭りがあっても、わざわざ見に行くことはほとんどない。

祇園祭しかり。しかも京都の夏は、もうムチャクチャ暑いので、余計に出掛ける気にはならない。

 

昨日24日午前中、たまたま事務所から烏丸三条周辺まで行く用があった。

事務所から御池通り手前まで至って、ようやく24日が祇園祭の後祭(あとまつり)の山鉾巡行の日であることに気がついた。

今年の前祭の山鉾巡行は、7月17日大雨の中、行われた。

24日はうってかわって、快晴の猛暑日。この日京都は37.9度という今季一番の暑さを記録した。でも、晴れて良かった。

 

三条通に行くには、御池通りを横断しなければならない。御池通の道路脇はさほど混んでいなかったので、しばし、巡行を見入った。

ちょうど北観音鉾が通るところだった。

 

 

こんなふうに、たまたま祭りを見ることができるのも、京都に住んでいる者の特典だなあ。

ちなみに、四条通りから来た知人に聞くと、四条通りは一杯の見物人だったとか。

 

 

富士山  山開き 2025

富士山に登るには、4つのルートがある。

山梨県側の吉田ルート、そして静岡県側の須走(すばしり)ルート、御殿場ルート、富士宮ルートである。吉田ルートが7月1日に開通し、静岡県側の3ルートも昨日7月10日開通した。いずれも9月10日まで。

 

無謀な登山が問題になる中、昨年の山梨県側に続き、今年は静岡県側でも規制が始まった。

スマホアプリを使った登録制となり、入山料4000円の支払いと登山ルールの学習が義務付けられた(2025年7月11日毎日新聞朝刊)とのこと。

弾丸登山や軽装登山などの無謀な登山者がいることや、日本一高い山で、世界文化遺産にも登録された富士山に登りたいと外国人も含め、ひと夏で何十万人もの登山者が殺到するため、環境保全の観点からもやむを得ない措置と言えよう。

 

私は、日本百名山踏破のため、2010年8月末に登った。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2011/02/4617.html

 

私の友人の山仲間の間では、富士山は、「登る」山ではなく、周囲の他の山から「見る」山だというのが定説であり、私も全く同感である。

独立峰で、雪を抱いた山容。これこそが、いつまでも見飽きることのない素晴らしい姿だと思う。

 

 

 

 

 

朝ドラ・あんぱん(その4)~チリンの鈴~

NHK朝ドラ「あんぱん」は、戦争場面が終わり、現在は戦後に入っている。

3週にわたって、戦争や軍隊の場面が描かれたことはこれまでの朝ドラにはなかったことで、これが、平和への強い思いとともに「アンパンマン」につながっていくのだろうと思う。

 

その戦争場面で、大きく心に残ったのが、たかしの同級生岩男と中国人少年リンとの最後の場面だった。

中国に進軍した日本軍。たかしは、同じ軍隊で幼なじみの岩男と再会する。岩男は自分の子どもと同じ年頃であろう中国人少年リンとまるで親子のように仲良しだった。しかし、ある日、岩男はリンが隠し持っていた銃で撃たれ、死亡する。実は、リンは、かつて岩男が殺した中国人夫婦の子どもで、リンはずっと復讐の機会を狙っていたのであった。

 

このエピソードは、やなせたかし原作で絵本にもアニメにもなっている「チリンの鈴」から取り入れられたようだ(アニメの方は、YOUTUBEで観ることができます)。

生まれたばかりの子羊チリン。母親がチリンをかばって狼ウォーに殺されたが、チリンは強くなるため狼ウォーのもとで修業を積む。ウォーとは父子のような関係となり、チリンはたくましく成長した。3年後、故郷の仲間たちを襲うよう命じられたチリンは、逆にウォーに向かっていき、ウォーを殺すのであった。

 

復讐というものの空しさを痛感させられる作品だった。

 

朝ドラ「あんぱん」では、先週まで3週にわたって戦争場面が放映された。

これは、「逆転しない正義」をアンパンマンに託した「やなせたかし」を語るには不可欠な場面だったからだ。

 

他方、戦争場面より以前から主人公「のぶ」は軍国少女となり、教師になってからは男子生徒には「お国のために」立派な兵隊になるよう教育を行う。ネットによると、そんな「のぶ」が嫌い、観るのがつらいなどという声が寄せられているとのこと。

しかし、当時、兵隊には行かず「銃後を守る」女性たちの大多数は、「のぶ」のように軍国主義に染まっていったのは史実である。

 

折しも、今日6月23日は、沖縄慰霊の日。

沖縄では、1945年3月下旬に米軍が上陸。約3ヶ月にわたる激しい地上戦の末、6月22日または23日に日本軍の司令官が自決した。

そして看護要員として戦場に送られた「ひめゆり学徒隊」の学徒達も軍国主義教育を受け、最後まで逃げることなど考えず、最後は解散命令が出され戦場に放り出されて命を落とした。

 

ドラマでは、戦後、嵩とのぶは再会し、二人で、「逆転しない正義とは何か?」を探していくのだろう。

 

 

映画「国宝」を観てきました

李相一監督の映画「国宝」を観に行ってきた。

新聞各紙に映画の記事が掲載されていたこともあって、以前から気になっていたが、何人かの弁護士がフェイスブックで絶賛していると聞き、観に行くことにした。

 

吉沢亮と横浜流星という、今、絶好調の若手俳優2人が女形の歌舞伎役者を演じる。それもわずか1年半という稽古期間で。

主人公は、ヤクザの息子である喜久雄(吉沢亮)。15歳で上方歌舞伎の花井半二郎(渡辺謙)に引き取られ、同じ年齢の半二郎の息子俊介(横浜流星)とはライバル同士として切磋琢磨する。俊介は当然半二郎の跡を継ぐと思われていたが。血か芸か・・・

 

3時間という上映時間はアッという間に過ぎた。

私は、歌舞伎に精通していないので全くの素人だが、歩く姿、立ち姿、舞踊、声の出し方・・・そのどれを取っても、まさに女形として完成しているように見えた。

背筋が冷たくなるような美しさ、妖艶さを感じた。

映像そのものも美しく、普段の歌舞伎公演では見られない角度からのカメラワークも見事だった。やはり劇場の大画面で観て良かったと思う。

何度も映し出される女形の歌舞伎場面は、よくもまあ1年半の稽古でここまでできるものかとただただ驚きしかなく、俳優というものは本当にすごいと思った。

 

ただ、欲を言うと、あくまで男の生き様を描いたものであり、彼らの後ろにいる女性たちの内面の葛藤があまり描かれていなかった。また、喜久雄がなぜ人間国宝になれたのかというその過程も描かれていなかった。

これは、原作本(吉田修一著)を読むしかないかな・・・

 

 

 

 

2025年6月12日付け京都新聞夕刊一面の「現代のことば」に、京都出身の脚本家桑原亮子さんがコラムを書かれていた。

桑原さんと言えば、以前NHKで放映されたドラマ「心の傷を癒すということ」や朝ドラ「舞いあがれ!」の脚本家である。

 

その桑原さん、「いつかこの人のドラマを書きたい」と心に秘めていた人が「やなせたかし」だったそう。

だから、朝ドラのモデルがやなせ夫妻(脚本は中園ミホさん)と知った桑原さんの「片想い中の先輩にいつ告白しようかそわそわドキドキしていたら、突然その先輩から結婚式の招待状が届いたくらいのショック」との表現は、さすが脚本家である、そのショックの度合いが手に取るようによくわかった。

 

さて、桑原さんがなぜ「やなせたかし」に恋い焦がれたのかというと、難聴を抱えて悩んでいた大学生の頃にやなせが編集した雑誌「詩とメルヘン」と出会い、自分の心が少しずつ元気になっていったという。

「詩とメルヘン」は、やなせたかしの生涯を語るに欠かせない雑誌であり、1973(昭和48)年4月に創刊された。もちろん前回のブログで紹介した本「やなせたかしの生涯」の中にも登場する。

「詩とメルヘン」は、読者が投稿した詩や童話と、プロの作家による作品を分け隔てなく載せ、実力あるイラストレーターが絵をつけるという珍しい本。発刊から30年も続いたという。

 

その「詩とメルヘン」に、桑原さんが子どもの頃のささやかな思い出を書いた詩を投稿すると、雑誌に掲載され、やなせのコメントもあったという。

「詩を通じて、心からの会話ができたような気がした」と桑原さん。

 

思えば、桑原さんが書いたドラマ「心の傷をやすということ」や「舞いあがれ!」にも、人と人とが心から通じ合えるような自然で素晴らしい言葉がたくさんちりばめられていた。

 

そんな桑原さんの原点が、「やなせたかし」だった。

「詩とメルヘン」という雑誌、どこか図書館かで探して読んでみたいと思った。

 

 

 

 

現在放映中のNHK朝ドラ「あんぱん」は、やなせたかしの妻暢(のぶ)が主人公。

ドラマの中では、たかしとのぶは、幼なじみという設定だが、実際は、たかしが戦後就職した高知新聞社の同僚として知りあって結婚した。

 

朝ドラを観ていることもあって、これまで全く知らなかった「やなせたかし」という人物のことを知りたいと思い、「やなせたかしの生涯」(梯久美子著)という文庫本を読んだ。

この本は、ノンフィクションで事実にもとづいて書かれている。

これを読んで、彼が生涯にわたって、「アンパンマン」などの作品に貫いた思いやその背景を少し理解することができたような気がする。

 

やなせたかし(本名:柳瀬嵩)は、1919年、高知県出身。漫画家、脚本家、美術監督、詩人。2013年94歳で永眠。

国民的キャラクターである「アンパンマン」の作者で、「手のひらを太陽に」の作詞家でもある。

 

実は、私は、これまで「アンパンマン」のテレビを観たことがないし、そのストーリも全く知らなかった。アンパンマンが自分の顔を食べさせておなかがすいた人を救うという特異なキャラクターであることを、朝ドラ関連の記事を読む中で知った(ちなみに、朝ドラはまだ、アンパンマン誕生まで至っていない)。

絵本「あんぱんまん」が刊行されたのが1973(昭和48)年。

アニメ放送第1回が1988(昭和63)年、もう私はすっかり大人になっており、子ども向けアニメには興味関心がなかったのだろう。観たことがなくてしかり、である。

 

今週の朝ドラは、たかしにも赤紙が来て召集され、軍隊や戦争場面が描かれる。実際に、やなせたかし自身も5年間戦争に行き、戦争の壮絶さ・残酷さそして悲惨さを身をもって体験した。その戦争体験がそれ以降のやなせたかしを作り上げる。

 

「ある日を境に逆転してしまう正義は、本当の正義ではない」「もし、ひっくり返らない正義があるとすれば、それは、おなかがすいている人に食べ物を分けることではないだろうか」

やなせたかしは、5年間戦争に行き、終戦直後に悩み抜いて出した自分なりの答えを、アンパンマンに託した。

また、おながすいた人に食べさせて顔がなくなってしまったアンパンマンがエネルギーを失速するところには、「正義を行い、人を助けようとしたら、自分も傷つくことお覚悟しなければならない」という考えがある。弱いヒーローが勇気を出した時、本当のヒーローになれるという考えがある。

 

ますます、これからの朝ドラが楽しみである。

ふるさと岐阜に帰省してきました

叔母の一周忌の法要があったので、久しぶりに岐阜に帰省した。

 

駅前では、たまたま日本共産党の街頭演説会が開かれており、国会議員の山添拓さんが演説されていた。山添さんは、京都出身で、今は東京の弁護士だ。

 

 

山添さんは岐阜初来訪とのこと。京都と違い聴衆が少なかったので、私もしばらく聴衆の1人となった。

 

岐阜駅2階には、鵜飼の大きな広告が飾られていた。鵜匠さんの写真入りだったので、小学校の同級生の山下哲司さんの写真がないかなあと探したら、あった!

おそらく、これ!(手前)

 

それにしても、岐阜市中心街は、もはや私が10代まで暮らしていた頃の活気は感じられない。私が大学生の頃に出来た高島屋が昨年7月に閉店となり、日本でデパートのない4県の1つとなった。

美川憲一が歌った「柳ヶ瀬ブルース」で一世を風靡した柳ヶ瀬も、先日、さびれいく柳ヶ瀬としてドキュメンタリー番組が放映されていた。

かと言って、岐阜駅周辺には高層マンションがいくつか建ってはいるが、こちらも決してにぎやかな街となっているわけではない。

買い物も不便そうで、大型スーパーはほとんど郊外にあり、車がないとなかなか行かれない。

 

ふるさと岐阜を思うと、なんだか寂しい限りである。

金華山と岐阜城そして長良川の景観が変わっていないのが、唯一私のふるさと岐阜の思い出のよりどころである。

2024年7月10日付けブログで「22年ぶり5度目の礼文島の旅」のことを書いた。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2024/07/6822.html

そして今年もまた、6月初め、6度目の礼文島の旅に出掛けた。

 

昨年の礼文の旅は天候が悪く、同行した山仲間の中には初めて訪れた人もいて、なんとなく欲求不満がたまっていたことから、今回同じメンバーでリベンジの旅となった。

どうせ行くなら、礼文島の準絶滅危惧種であるレブンアツモリソウが見頃の時期が良いということで、日が決まった。

昨年は天候が悪い日が続いていたため、なかなかウニ漁が出来ないとのことで、私も礼文に来て初めてウニを口にできなかったので、そのリベンジもあった。

 

レブンアツモリソウは、20数年前に2度、見たことがあった。

1度目はホテルの中庭の花壇で、2度目はレブンアツモリソウ群生地にわずか数輪が残っていた花を。

レブンアツモリソウ(ラン科)は開花時期が5月中旬から6月上旬頃までで、礼文島で高山植物が咲き乱れる時期からは少し早く咲く。だから、2度見たと言っても、本来の開花時期からは少し遅い時期で、たまたま出会うことができたという感じだった。

 

今回は、従来のレブンアツモリソウ群生地とは全く別の場所に、新たな群生地が今年からオープンしたというサプライズがあった。

4-5年前に海岸の砂浜に残土を捨てたところ、そこからレブンアツモリソウの芽が出て開花し、今年開園に至ったらしい。

まだあまり知られていないのか、観光客もまばらで、近くでゆっくり見ることができた。

クリーム色や白色の3~4㎝位のピンポン玉のような花は、本当に可愛かった。

 

 

 

ただ、翌日のNHKのニュースでは報道されていたので、放映後は混雑したかも。

 

さてさて、ウニ丼もスコトン岬と稚内で、2度、食にありつくことができ、こちらの方も大満足でした。

 

 

 

 

宇多田ヒカルと夫婦別姓

自民党が今国会に夫婦別姓に関する法案提出を断念したという報道があり、野党も足並みがそろっていない。

1996年に法制審議会が夫婦別姓選択制を導入する民法改正要綱案を答申してから既に約30年が経過しようとしている。

この国では、いったい、いつになったら法制化が実現するのだろう・・・

 

そんな中、宇多田ヒカルの新曲が物議をかもしていることを、2025年5月21日付け毎日新聞夕刊の中森明夫氏のコラムを読んで初めて知った。

ネットで調べてみると、宇多田ヒカルの新曲「Mine or Yours」の中で、「令和何年になったらこの国で/夫婦別姓OKされるんだろう」という歌詞が確かにあった。

 

上記コラムによると、「夫婦別姓」のワードを歌詞にしたのは、我が国ポップスで初とのこと。この問題に関心の薄い膨大な数の若者たちが「夫婦別姓」という言葉を一斉に検索した、と中森氏は続ける。どんな政治家や社会運動家よりも宇多田は「この国を前に進めた」と思う、とも。

 

私は昭和世代だから、宇多田ヒカルよりは、母親の藤圭子の方に親しみを感じる。

でも、宇多田ヒカルが1998年末に15歳でデビューした時の印象は強烈で、デビュー曲の入ったCDは購入してよく聴いていた。

現在は、ロンドンに在住するシングルマザーで、4年前にノンバイナリーであることを公表したとのこと。

 

多様性が叫ばれる今日、夫婦の姓についても当然選択の自由が尊重されるべきであり、人気のアーティストがこのような新曲を発表してくれたことは、とても嬉しい。

ホセ・ムヒカ元ウルグアイ大統領死去

ホセ・ムヒカ南米ウルグアイ元大統領が、2025年5月13日、89歳で亡くなった。

 

ムヒカさんは、2010~15年に大統領を務めた。大統領時代、豪華な公邸には住まず、畑の中の古屋から通い、収入の9割を貧困層に寄付、生活費は毎月約15万円相当だった。

「世界で最も貧しい大統領」と呼ばれたが、来日した2016年の朝日新聞のインタビューでは、「質素なだけで、貧しくはない」と語った。

「何もかも持って満たされている人が、さらに『これが欲しい』『あれが欲しい』というのが貧しさだと思う」とも語ったという。

「私たちは経済発展をするために、この地球にやってきたわけではありません」とも。

 

ムヒカさんの半生を描いた映画が日本で上映されたこともあり、私も観に行った。

 

「裏金」にまみれ、新人議員1人につき10万円もの商品券を配布するような総理を輩出する政権政党には、ムヒカさんの爪の垢でも煎じて飲んでほしいものだ。

 

私自身はムヒカさんの足元にも及ばないが、ムヒカさんの遺志を常に頭の片隅に置いて生きていきたい。

 

 

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