1. ブログ マチベンの日々

ブログ マチベンの日々

権力者も心酔した香木「蘭奢待」

2025年10月25日から第77回正倉院展が始まった。

以前、何度か行ったことがあるが、ここ何年かは行っていない。

 

その正倉院展に、「蘭奢待」(らんじゃたい)の雅名をもつ香木「黄熟香」(おうじゅくこう)が出展されている。織田信長・足利義政・明治天皇の3人の権力者がこの香木から数片切り取ったことは有名である。

 

実は、今年10月初めに集った、大学卒業以来の同級生数名の中に、農学部出身で林産工学を専門とする京大名誉教授のTさんがいた。

Tさんとは、学部は違っていたが、大学時代の下宿が近所だったこともあって、時々、部屋に寄ったこともあった。

卒業後は、年賀状のやりとりすらしていなかったが、ある時、インターネットで京大に教授として在籍されていることを知り、京大を退官される時に初めて連絡を取った。しかし、その後も会うことはなかったが、ようやく今年数十年ぶりの再会となった。

 

会った時、Tさんから専門分野の興味深い話をたくさん聞かせてもらったが、最近は、正倉院から依頼を受け、宝物の木について調べているという。宝物を移動する際に落ちる、ほんの小さな破片から調査するそうである。

その中に「蘭奢待」調査の話もあった。

2025年10月25日付け読売新聞夕刊に「蘭奢待」の記事が掲載されていたが、蘭奢待は、ベトナムからラオスにかけての山岳地帯で生えていたジンチョウゲ科の木が原木で、772~885年頃に伐採されたか倒木したことが判明した。それ以降、正倉院に納められた。

こういうことも、Tさんが調査されて判明したんだろうな。

 

その後、NHKが「フロンティアで会いましょう」という番組で「蘭奢待の謎」を放映し、Tさんもその番組に出演することを知ったので、もちろん観た。

 

「蘭奢待」はどんな匂いがするんだろう・・・?

テレビ番組出演者は、「甘い」とか「杏仁豆腐のよう」とか言っていた。想像できない!

他方、毎年のように正倉院展を訪れている奈良在住の友人に聞くと、「以前より今年は、なぜか、あまり良く匂わなかった」と言っていた。匂いは「言葉では表現できない」とも。

 

私自身は、「匂い」や「香」にはさほど興味はないが、「蘭奢待」の匂い、1度くらいはかいでみたいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕には鳥の言葉がわかる」(鈴木俊貴 著)

私が今年読んだ本の中で、ダントツ、面白い!と思った。

 

2025年10月21日付け当ブログで畠山重篤さんのことを書いた時と同じように、鈴木俊貴さんの本のことも以前に読売新聞コラムに掲載されており、なぜかその記事も残してあった。

そして、先日会った高校時代の同級生が、これも偶然にその本を持っていることを知り、貸してもらった。とてもわかりやすい文章だったので一気に読んでしまい、更に一層興味を持った。

すると、またまた偶然にも、鈴木俊貴さんが2025年10月27日放映のテレビ「徹子の部屋」に出演と知り、Tverを観て鈴木さんの話を聞くこともできた。

 

鈴木さんは、1983年生まれで、現在、東京大学准教授。専門は動物言語学だが、この「動物言語学」という学問は、2023年に鈴木さん自身が命名した新しい学問である。

鈴木さんは、幼い頃から動物を観察することが好きだったが、大学生の頃に、シジュウカラの鳴き声に興味を持ち、「餌皿を置く→観察する→片づける」という単純作業をひたすら繰り返し、シジュウカラの仲間を呼ぶための鳴き声を発見する。

また、ある時は、バッタ採集のアルバイトでお金を貯め、それでシジュウカラ用の巣箱40箱を作り、巣箱の天井に小型カメラを設置して親鳥とヒナの様子・行動などを観察した。

まさに、「シジュウカラ・オタク」だ。

 

鈴木さんは、大学卒業後研究者となり、ずっとシジュウカラの研究を続けた。

そして、古代ギリシャ時代から現代まで、言葉を持つのは人間だけで、動物たちの鳴き声は感情表現だ決めつけられてきたが、鈴木さんは、シジュウカラにも言葉があることを発見そして証明し、彼の論文は世界で認められた。

証明するための実験過程もまた実に面白い。科学者・研究者というものは、こういうもんなんだなと思わせる工夫と忍耐力だ。

 

山に登ると、鳥の鳴き声も聞こえるが、これまで関心を持ったことがなかった。

鈴木さんによると、シジュウカラは街中でも頻繁に見られる鳥だそうだ。

私は早速、カバンの中に、双眼鏡を入れて持ち歩くことにした。

とりあえずは、京都御所に行ってみよう・・・

 

 

 

 

2025年10月24日午後5時過ぎから、京都弁護士会主催の毎年恒例のパレードが行われ、参加してきました。

当事務所からも弁護士や事務局員も多数参加しました。市民の皆さんの参加もありました。

 

例年は、夏にパレード終了後のビアパーティーと同時に行われてきましたが、ここ数年の猛暑のため、秋に行われるようになりました。

 

今年のテーマは、「再審法改正」と「選択的夫婦別姓制度」で、いずれも日本弁護士連合会の重点課題となっています。秋に開催される予定の臨時国会において実現させるべく、パレードのテーマとなりました。

 

本年度の弁護士会の会長・副会長の皆さんです。

パレードの先頭を歩きます。

 

 

パレードは、京都弁護士会から検察庁・京都府警本部前まで。

「再審法改正」については検察庁や府警本部前では、一段とシュプレヒコールの声が高まりました。

 

 

「森は海の恋人」~故畠山重篤さん~

事務所では、新聞4紙を購読しているので、毎朝、新聞各紙にざっと目を通した後、4紙とも新聞1面下段のコラム欄を音読している。

なんのことはない、声の老化防止のためである。

 

単に老化防止のための音読だが、これらコラム欄には、歴史、人、自然、政治などなど、実に様々な分野の内容がコンパクトに書かれており、元新聞記者の知人に尋ねると、数人で分担執筆されているそうだが、その博識には敬服するし、とても勉強になる。

 

「畠山重篤(はたけやましげあつ)」さんのことも、2025年4月に81歳で亡くなられたことに触れた新聞コラム記事で初めて知った。

「森は海の恋人」という素敵な言葉とその言葉の持つ意味の深さに興味を持ったので、それ以降、彼に関する新聞記事をコピーして保存しておいた。

 

そんな折り、名古屋で環境問題に取り組んでいる高校時代の友人が京都に来てくれたので、久しぶりに出会い、彼女から「センス・オブ・ワンダーを語る」という本をいただいた。

この本は、レイチェル・カーソンの遺作「センス・オブ・ワンダー」の出版60年を機に、レイチェル・カーソン日本協会が開く講演会などで語られた4名の方の生命をめぐる話を集めた記録である。

偶然にも、その中に「畠山重篤」さんの講演と対談が掲載されていた。

 

「森は海の恋人」という素敵なフレーズそのものが、畠山さんの活動を見事に示している。

畠山さんは、宮城県気仙沼市舞根湾(もうねわん)でカキを養殖する漁師でありながら、1989年から気仙沼湾に注ぎ込む川の上流にある室根山に植樹を始めた。カキを育む海の養分は川がもたらす。森の土に含まれる養分が川から海に注がれるからだ。ならば水源の森を豊かにしなくては、と。

 

畠山さんの講演録を読んで、新たに知ったことがあった。

カキを育む海の養分は、植物プランクトンだ。その植物プランクトンを増加させるのは、1つには川から海に流れてくる腐葉土があり、その中に植物プランクトンの肥料になる成分も含まれている。そして、もう1つ。腐葉土のほか、地質に含まれている成分のうち鉄分は植物プランクトンの繁殖に不可欠であることがわかったという。広島のカキも宍道湖のしじみも鉄分と関係があった。

 

また、2011年3月の東日本大震災後の様子も気になったところだった。

畠山さんは、津波で母親を失い、カキの養殖場は流され、被害額は2億円。生き物が消えた海に絶望しかけた。だが、気仙沼の海に流れ込む大川にはダムがなく、それによって、震災後もカキの餌である植物プランクトンが潤沢にあり、カキ養殖は復活した。

 

学問の世界も政治の世界も、海、川、農地、山と、分野が分かれているが、本当は、それらはすべてつながっていることを知ることが大切であることを教えられた。

畠山さんは、子どもたちに環境教育を実践したり、執筆活動を行ったりと、多彩な活動を展開した。

そして畠山さんの言葉、「大切なのは、人の心に木を植えることです」

 

 

 

 

 

2024年1月1日16時10分、能登半島に震度7(マグニチュード7.6)の巨大地震が襲いました。

そして、地震からまもなく2年が経過しようとしています。

そんな今、2025年10月13日、ようやく自分の目で能登の被災地の現状を垣間見ることができました。

 

阪神淡路大震災が起きたのが1995年1月17日。発生後しばらくして、まだ交通機関も十分復旧していない中、青年法律家協会京都支部の有志約10名余で神戸を訪れました。私も参加して現地を見、被災者の方々との交流等を行いました。

でも、2011年3月11日に起きた東日本大震災については、震災後、現地に足を踏み入れることができませんでした。

だから、能登半島地震が起きた後、京都からの距離が比較的近いこともあり、何らかの形で是非足を踏み入れてみたいと思っていました。

今般、京都弁護士会内の四一会(よんいちかい)という会派の結成50周年として「能登半島地震被災地の視察&支援旅行」が企画されたため参加し、私の中で、ようやく能登被災地訪問が実現しました(当事務所からは、金杉弁護士と秋田弁護士も参加)。

 

能登半島地震の現状については、京都の(株)きかんしコムで働いておられた庄見二三男さんが2024年3月定年退職後の4月に能登に行かれ、それ以降は、「能登半島地震被災者共同支援センター」を拠点に現在も活動しながら被災地の状況の発信を続けられています。

そんな庄見さんの発信記事を読むにつれ、地震そしてその後襲った豪雨によって被害が広がり、にもかかわらず復旧が一向に進まない奥能登の現状がとても気になっていました。

 

今回の1日わずか数時間の調査で、私たちが見たものは、おそらく被災地のほんの一部だと思います。最近では、新聞報道もあまりない中で、能登が「見捨てられている」感を強く感じました。

調査については、共同支援センターの黒梅事務局長から案内・説明をしていただきました。

 

私たちは、前日、石川県羽咋(はくい)市に宿泊し、13日は、そこから「のと里山海道」を北上した後、珠洲市の東海岸と西海岸、輪島などを回りました。

私は、これまで能登半島は、中間辺りの能登島までしか行ったことがなく、最北まで行くのは初めてでした。

2024年秋、石川県金沢市に短時間立ち寄ったことがありました。金沢市は京都と同様たくさんのインバウンド客が訪れ、街には地震があったことなど全く感じさせないほどの活気がありました。

しかし、私たちが羽咋市から北に進めば進むほど、景色が一変しました。別世界でした。

屋根に青いビニールシートがかけられた住宅も目立ち、道路の至るところが陥没したままだったり、工事中だったりでした。道路も奥能登まで道はつながっているものの、ドライバーから「道路が波打っていて、車酔いするかもしれない」と言われるほど杜撰な工事による道路状況でした。

 

車の中で黒梅さんの説明を聞きながら、しばらく被災地を進んだ後、最初に下車したのは、珠洲市の東海岸の見附島(みつけじま)が見える場所でした。

 

 

能登半島では、東海岸では沈降と津波が、西海岸では隆起(2~4m)が起きたそうです。

見附島は能登半島の東側の景勝地で、軍艦のような形をしていたところから「軍艦島」と呼ばれていましたが、目視では島の先が崩落していました。

 

また、付近には、たくさんの仮設住宅が建ち並んでいました。

さすがに道路上に流木などはありませんでしたが、道路脇の電柱は倒れたり傾いたりしたままとなっているものもあり、解体もされず荒れたままになっている民家もたくさんありました。

 

 

西海岸の曽々木海岸(そぞぎかいがん)です。珠洲市との境に近い輪島市にあります。洞門や奇岩が続く景勝地でしたが、窓岩は崩れ、海岸には岩が隆起し流木やゴミなどが放置されたままでした。

 

 

名舟(なふね)漁港です。海底が隆起したため、岸壁に船が接岸できなくなったり、港に船が出入りできず、放置されたままになっています。

 

 

白米(しろよね)千枚田です。輪島市白米町にある棚田で、日本の棚田百選にも選ばれています。地震で水が引けなくなって稲作ができなくなりました。それでも修復を続け、少しだけ田植えも行われているようです。

 

 

西海岸の景勝地付近は、元々簡易水道で、復旧が難しく、集落自体は人が居住できない状態だそうです。空き屋が多く見られました。

 

輪島の朝市があった場所は、跡形もなく、雑草が生い茂っていました。

 

鹿磯漁港。ここは4mも隆起したそうです。水面がかなり下なので、船が接岸できません。

 

 

たくさんの仮設住宅がありました。現実にたくさんの人が生活されています。防音も断熱もなく劣悪な住居環境だそうです。そんな仮設住宅でも、原則2年で退去しなくてはなりません。

なんとか自宅建物が残っていても、遠方の役所まで出向かないと公費解体の申請ができない、資材高騰や大工不足、水道がいまだ復旧していない、そもそも金がない、などなど、国や自治体がもっと力を入れなくてはならないところが、「見捨てられたまま」となっています。

大阪万博によって能登に建設業者や職人が不足し、能登全体の復旧が著しく遅れたことは明らかだと思いました。

 

実際に被災地に行かないとその現状は伝わらないと強く感じましたが、私たちが見たものは、能登被災のほんの一部だったと思います。

 

10月17日付け京都新聞の朝刊では、石川県外に身を寄せる人達の避難生活が長期化し、生活再建の目処がたたない上に、避難先の京都府・京都市の公営住宅の無償提供期限が12月末に迫り、不安を募らせている人も少なくないという記事が掲載されました。

 

私たちが弁護士として何ができるのか、考えなくてはいけないと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拍手、両手ぶつかる音じゃなかった

こんなタイトルの記事が、2025年9月9日付け朝日新聞朝刊に載っていました。

 

「拍手」の練習ってしたこと、ありますか?

実はダンスの中で、おそらくフラメンコだけには、手拍手(スペイン語でパルマと言います)が伴います。

ですから、私がフラメンコを習っていた時は、パルマの練習もしました。

低い音と高い音とでは、手をたたく場所もたたき方も異なっています。良い音を出すのはなかなか難しく、一生懸命練習しました。

 

朝日新聞の記事には、「拍手の音の正体は、両手がぶつかりあう音ではない」「空きびんに息を吹き込んだときに音が鳴るのと同じ現象」という米日の研究チームの成果が米科学雑誌に掲載された書かれていました。

 

人の手というやわらかいもの同士の衝突と音波の伝わりがからんだプロセスは複雑で、音が出る仕組みや音の特性は詳しくわかっていなかったようです。

米コーネル大などの研究チームによると、手と手とぶつかった瞬間はほぼ音がせず、両手の間の空洞の空気が、親指と人差し指の根本のすき間から噴き出す時に音が出ることがわかりました。

そして、その音の周波数は、「ヘルムホルツ共鳴」と呼ばれる現象の理論式から導かれるものと一致しました。

空きびんの容器に息を吹き入れた時、「ぼーっ」と音が出るように、拍手では、「両手の空洞」が容器、「親指と人差し指の付け根にできるすき間」が開口部に対応するそうです。

 

面白いですね。

 

 

 

 

 

 

神尾真由子さん、ヴァイオリンコンサート

2025年9月23日(祝)、久しぶりに大阪フェスティバルホールに出掛けた。

 

若い頃は、熊川哲也のバレエや綾戸智絵のコンサートを観るため、足繁く通ったものだが、ここ数年はほとんど訪れたことがなかった。

 

思い立ったのは、2007年第13回チャイコフスキー国際コンクールで優勝し一躍注目を集めた神尾真由子さんのヴァイオリンコンサートがあり、しかも、なんと、そのプログラムがメンデルスゾーンとチャイコフスキーの2大ヴァイオリン協奏曲という贅沢な選曲ということで(日本センチュリー交響楽団と共演)、即座に「聴いてみたい」と思った。

 

この2つのヴァイオリン協奏曲は、私が大好きな曲目で、CDでよく聴いている曲だから、尚更だ。

 

早速、クラシック好きの友人に連絡を取り、チケットを入手してもらうようお願いした。

 

神尾さんのヴァイオリンを聴くのは初めてだったが、その奏でる哀愁がなんとも言えず素晴らしく、また他方でスピード感もあって、本当に珠玉の2時間だった。

 

また、どこかで神尾さんの演奏を聴いてみたいと思った。

 

 

「日ソ戦争」(麻田雅文 著)を読んで

以前から、同じ事務所の吉田美喜夫弁護士から「面白い!」と薦められていた。

それが、麻田雅文・成蹊大学教授著の「日ソ戦争」(中公新書)。

 

えっ?日ソ戦争?日露戦争のこと?

恥ずかしながら、「日ソ戦争」と言われても、それがどんな戦争を指しているのか、ピンと来なかった。だから、この本も薦められてからすぐに読んだわけではなかった。

 

読もうと思ったきっかけは、当ブログでも紹介したが、「黒川の女たち」という映画を観たことがきっかけだった。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2025/08/7215.html

 

1945年8月終戦後、岐阜県黒川村の満蒙開拓団の未婚の女性たちは、侵攻してくるソ連軍に自分たちを守ってもらうため、「性接待」の役目を押しつけられた。

この時、なぜ、ソ連軍が満洲(中国東北部)に侵攻してきたのか?

 

日ソ戦争とは、1945年8月8日ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告し、日本はポツダム宣言を受諾し同月15日に米英に降伏を表明したものの、翌9日から同年9月上旬まで満洲・朝鮮半島・南樺太・千島列島で展開された、両軍あわせて200万人以上の兵力が動員された全面戦争だった。

 

毎年8月15日、新聞やテレビでは「終戦記念日」として報道がされる。

しかし、実は、「終戦」の1945年8月15日以降も日本とソ連は戦争を続け、シベリアに抑留された人達が完全に日本に帰国できたのは、なんと終戦から10年以上も経った1956年だったことに少なからず衝撃を受けた。

 

日ソ戦争については、史料の制約があって研究が遅れ、1991年のソ連崩壊以降、公文書などが順次公開されるようになったとのこと。

 

なぜ、ソ連は、第2次世界大戦の終盤に、日本へ宣戦布告したのか?

日本はなぜこの直前まで、ソ連に期待して外交を続けてきたのか?

終戦の1945年8月15日以降もなぜ日ソ両軍は戦い続けたのか?

 

本書は、それらのことがわかりやすくまとめられている。

そして、シベリア抑留・中国残留孤児・北方領土問題などは、日ソ戦争を起点とすることも知った。

当時のソ連は、スターリン治世下。

そして現在、ロシアは国際法違反のウクライナ侵攻を続けている。

私たち日本人も日ソ戦争の背景をもっと知る必要があるのではないだろうか。

 

学生時代の世界史では、およそ習わなかったであろう歴史を少し伺い知ることができた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025ピースライブ

9月13日(土)午後、京都教育文化センターホールで開催された「ピースライブ」に行って来た。

中心となって活動されてきた笠木透さんや高石ともやさんは既に亡くなられてしまったが、「憲法9条を守るコンサート」として続けられ、今年でなんと19回目の開催という。

教育文化センターホールは、中高年で満員。

 

私自身は2回目の参加。

 

今回の出演者は、シンガーソングライターの川口真由美さん、バイオリンとギターのジュスカ・グランペール、お笑い芸人松本ヒロさん、うたごえグループの雑花塾。

 

私は、ジュスカ・グランペールのお二人の演奏も好きだが、久しぶりに松元ヒロさんのコントを生で聴きたくて、参加した。

 

政権批判コントのため「テレビからはお呼びがかからない」芸人松元ヒロさん。

もう70歳を過ぎておられるとのことだが、その毒舌は達者で、45分間大いに笑わせてくれた。

 

最後は、出演者と会場が一体となっての盛り上がり。

とても楽しいライブだった。

 

 

 

 

北アルプスの遭難事故、多発

ネットニュースを読んでいると、今年は北アルプスでの遭難が例年より多いような気がして、少し気になっていた。

 

実際、長野県警山岳安全対策課のまとめによると、今年(1~8月)の県内の山岳遭難者数は昨年同期比56人増の303人、山域別では北アルプスが全体の65%を占め、そのうち槍穂高連峰は29%の57人だった。

 

遭難原因についても、「足がつって歩けなくなった」「転倒して歩けなくなった」など、滑落のような事故と比べると軽度の事故の報道も目立ち、なんだか例年と違うような気がしていた。

そんな感じを裏付けるように、「信州まつもと山岳ガイド協会やまたみ」によると、近年SNSやYOUTUBEを見て、「自己流」で登山する人が増え、安易に難度が高いコースに挑んだ結果、救助になるという例もあると言うことを知った。

 

そこで、環境省中部山岳国立公園管理事務所は、9月13日から、北アルプス上高地から入山し、槍穂高連峰などの高山帯を目指す人については、横尾にゲートを設け、登山者に装備や体調、マナーの確認を促す実証実験を始めるという。ゲートは初の試みで、期間は10月13日まで。

 

登山は死に至る危険性を常に伴っている。

登山する場合には、自分の体力はもとより、荷物の重さ、持参する水分の量、天候、時間などなど、あらゆる事柄に気を配ってほしい。

 

 

今夏、久しぶりの山小屋3泊の山旅をした。

 

2013年に日本百名山を完登し、コロナ明けの2023年からは、「北アルプスをつなぐ」を1つの登山目標とした。

「北アルプスをつなぐ」というのは北アルプスの山々を「線」で(実際に歩いて)つなぎ、いまだ歩いていない所を歩くこと。西穂から奥穂、槍から北穂など、超危険箇所は既に歩いていたので、余計に「つなぎ」たくなった。

いうことで、当時、まだ「つながって」いなかったところについて、2023年夏に栂海(つがみ)新道(朝日岳から親不知)を、2024年夏に針ノ木岳サーキット(針ノ木岳から種池山荘・爺ヶ岳)をつないだ。

そして今夏は、常念岳から槍ヶ岳までをつなぐ尾根でこれま歩いたことがなかった「東鎌尾根(ひがしかまおね)」を歩くことをメインの目標とした(常念岳も槍ヶ岳もどちらも前に登頂経験あり)。

 

行く前に、既に東鎌尾根を歩いたことがある山仲間に「今年は東鎌尾根に行く」と言うと、皆、なんとなく不安そうな顔をして、「あそこは緊張する」などと言って、誰からも「村松さんなら大丈夫」とは言ってもらえなかった。東鎌尾根は、「鎌尾根」と言われるだけあってヤセ尾根で、道の両側が切れ落ちていたり、何十段ものハシゴがいくつかあったりする厳しいルートである。

その上、今年の猛暑。近場の低山に登ってトレーニングする気力もなく、涼しい朝に鴨川辺りを歩いたり、冷房のきいたジムでベルトの上を歩いたり走ったりするのが精一杯だった。

そのため、「歩き続けられるだろうか」という大きな不安を抱えての山行きとなった。

 

1日目は、中房(なかふさ)温泉登山口から「燕山荘(えんざんそう)」まで合戦尾根を登る。標高差約1200m。

合戦尾根は、早月尾根、ブナ立て尾根と並ぶ北アルプス三大急登の1つである。

若い頃には3回登ったこともあり、勝手知ったる尾根と言えど、最初から急登の連続。コースタイムが4時間20分のところ、若い頃は、3時間台で登ったが、今回は、約5時間もかかった。

途中にある合戦小屋の名物のスイカは健在で、一切れの大きさは以前より小さくなっていたが、スイカを食べると生き返った気がした。

 

 

燕山荘着後、燕岳(つばくろだけ、2762.9m)まで往復する。

翌朝の燕岳。

 

 

2日目は、燕山荘から大天井岳(おてんしょうだけ、2923m)を経て、「ヒュッテ西岳」まで。歩行時間は約8時間半。

大天井岳山頂。槍ヶ岳があんな遠くに。明日は、あそこまで歩く!

 

 

3日目、いよいよ今日が東鎌尾根を歩くメインの日だ。ストックは使えないので出発時からリュックに収め、ヘルメットをかぶって出発する。水俣乗越までど~んと下り、そこから今度はヤセ尾根を登り返す。何十段もの鉄梯子を慎重に上ったり下りたりする。緊張の連続だ。

そして、なんとか今宵の山小屋「ヒュッテ大槍」に到着する。

小屋に不要な荷物を置いてリュックを軽くして、いよいよ東鎌尾根の最後のルートを槍ヶ岳(3180m)に向かう。ここからも気が抜けない危険なルートだ。

 

東鎌尾根から見る槍ヶ岳。ここから見る槍ヶ岳の山容が一番美しいとのこと。

 

 

槍ヶ岳の肩にある槍ヶ岳山荘に到着して一息ついた後、山頂を目指す。

槍ヶ岳には何回か登っているが、気は抜けない。ペンキ印に従って慎重に登っていく。

そして登頂!360度の展望。

今日までの3日間、長い道のりを経て山頂に至り、東鎌尾根を歩き通せた達成感で感慨もひとしおだ。

 

4日目早朝。小屋から、日の出と槍ヶ岳のモルゲンロートを見る。

 

 

4日目は、槍ヶ岳から上高地まで一気に下る。

とにかく、よく歩いた。こんなにも長い距離を歩けるって、人間の足ってなんと凄いものかと驚嘆する。

でも1週間経った今も、まだ足がなんとなく痛い。

 

さあ、次は、どこの山へ・・・?

 

 

 

 

 

 

 

防災研修

2025年8月26日夜、京都弁護士会の災害対策委員会主催の防災研修を受けました。

 

今回の防災研修は、外部講師をお招きして、という内容ではなく、自分たちで災害用備品を実際に使ってみようという研修でした。

我が自宅に、災害用備品が完備しているわけではありませんが、とりあえず非常用トイレは持っています。でも、使用したことはありません。

以前、新聞記事に試しに使ってみた方が良いと書かれてありましたが、やはり実際に試したことはなく、今回の研修を試してみる絶好の機会と考えました。

 

参加者が3つのグループに分かれ、それぞれ課題が与えられ、それを1つ1つクリアしていきます。

例えば、

非常用トイレについては、コーヒーを薄めた液体を流して試してみました。やはり、使用方法をわかっていないと、戸惑ってしまいます。

手でハンドルを回して使うラジオは、会場が地下だったせいか、電波が受信できませんでした。後で、たまたまネットを読むと、手回しラジオよりは、電池型ラジオの方が良いと書かれてありました。

最後に、皆でアルファー米を食べました。これは、お湯なら15分、水なら60分でふっくらご飯を食べることができるというものです。私は、登山で利用したことがあるので、食べたことはありました。久しぶりに食べましたが、美味しかったです。

 

参加して、少し勉強になりました。

 

 

 

 

 

 

NHK朝ドラ「あんぱん」で、俳優妻夫木聡が演じている「八木信之介」。

戦時中は八木上等兵、戦後は九州コットンセンターを設立してビーチサンダルなどを販売している。

 

そのモデルは、山梨シルクセンターの社長辻信太郎氏である。

山梨シルクセンターは、のちに社名をサンリオと変え、ハローキティをはじめとする世界的なキャラクターを生み出すことになる。

辻氏は、キティーちゃんの生みの親だったのだ。

史実としては、たかしが辻氏と出会ったのは、戦後の1965(昭和40)年。たかしが辻氏から、お菓子のパッケージのデザインを依頼されたことから始まる。

辻氏は、1927(昭和2)年生まれ。たかしより8歳年下だった。知りあった当時、辻氏の会社には社員は数人しかいなかった。

その後、文学青年だった辻氏は、日常の言葉で書かれたシンプルきわまりないたかしの詩に強く心惹かれ、社員や銀行の反対を押し切って、出版部を作り、1966年9月たかしの初の詩集「愛する歌」を出版する。

 

ここらあたりまでが、今週の「あんぱん」の放送予定だろうか。

 

辻さんは、「人が殺し合っていいことはなく、間違っているんです。戦争してもしかたないなんてことはありえないんです。人と殺し合うことはやめないとだめなんだと大きい声で世界に向かって言ってほしいと作ったのが、ハローキティなんです。キティは仲良しのシンボルなんです」と語っている。

 

キティちゃんには、そんな素敵な思いが込められていたんですね。

 

その後も、たかしと辻氏の関係はどんどん深まっていく・・・・今後の朝ドラの展開も楽しみですね。

天気予報は、国家秘密だった

天気予報が国家秘密だった!?

 

台風などの時だけでなく、日々、何気なく、確認する天気予報。

私たちにとっては、とても身近で、なくてはならない情報である。

そんな天気予報について、弁護士になってまもない頃の国家秘密法制定反対運動の中で、太平洋戦争中「軍事機密」とされ、報道が禁止されていたことを知った。

 

1941年12月8日の真珠湾攻撃を境に、気象情報は軍事機密とされた。

軍の管制から復活したのは、80年前の1945年8月22日。

太平洋戦争中の3年8ヶ月の間、国民向けの天気予報はテレビやラジオから消え、気象台の職員は、戦争の作戦を練る上での情報を軍に提供するため、観測を続けた。敵国に漏れないよう暗号化して軍などとやりとりされた。

台風の情報さえ提供できず、1942年8月西日本を襲った周防灘台風では死者・行方不明者が1000人以上になった。

人命や安全は二の次だった。

 

「天気予報」は、まさしく平和のシンボルである。

富士山の山頂から登る朝日・・・このダイヤモンド富士と呼ばれる絶景を自分の目で1度見たかった。

 

数年前の年末、山梨県の竜ヶ岳に登って山頂からダイヤモンド富士を見るツアーがあることを知り申し込んだが、あいにく大雪となり、直前キャンセルした。

そんな折り、友人から、静岡県の田貫湖(たぬきこ)の湖畔からは、4月と8月にダイヤモンド富士が見られるという話を聞き、山仲間らと今年4月21日に田貫湖に出掛けた。しかし、22日23日両日共、悪天候で、富士山の姿すら見えず。

 

そこで、8月の今回、リベンジ旅行となった。天気はここ数日、毎日晴れ予報だが、心配なのは、雲の動き。

8月19日は午前4時起床。午前4時半頃から、空が白んでいくにつれて、薄暗い中に富士山のシルエットが徐々に浮かび始めた。湖畔には既にいくつものカメラの三脚が並んでいる。午前5時15分頃からは、湖畔で、三脚の隙間を狙って陣取る。少しでも場所を離れようものなら、すぐに誰かがその場所を押さえてしまうので動くこともできず、ひたすら同じ場所でジッと待つ。シャッターチャンスは数秒だと聞かされる。

午前6時2分頃から山頂付近が徐々に金色になり始め、6時6分にはダイヤモンド富士が顔をみせた。素晴らしい!

 

 

逆さ富士も映っている。でも、肉眼の方がもっと美しい。

アッという間に太陽がまぶしくなり、見ていられなくなる。

本当にほんの数秒の絶景だった。

 

 

映画「黒川の女たち」を観て

昨日は、満洲のことを考える1日となった。

これまで当ブログでも何回か書いたが、私の父は、1924(大正13)年に旧満洲で生まれた。父の生前、満洲時代の話をほとんど聞いていなかったので、私にはその悔いから「満洲」には特別な思いが今でもある。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2022/08/6282.html

 

昨日(2025年8月16日)付け読売新聞朝刊1面・7面の「戦後80年/昭和百年 家族の記憶」には、作家新田次郎(本名:藤原寛人)さんと妻ていさん、そして二男で数学者の藤原正彦さんと妻美子さんのことが書かれていた。

藤原ていさんが満洲引き揚げ時の壮絶な体験を書いた「流れる星は生きている」を読んだことがあり、記事を読んで、引き揚げ後の家族の姿も含めて、あらためて戦争が家族の姿を変えてしまうことを痛感した。

 

そして午後は、新聞に紹介されていたので前から観に行こうと思っていた映画「黒川の女たち」を京都シネマに観に行った。

映画を観て知ったのだが、「黒川」というのは、私の出身地である岐阜県の地名だった。

岐阜県加茂郡白川町黒川。飛騨の白川ではなく、美濃にある白川である。

 

その黒川の村から、国策であった満蒙開拓団として約500名以上の村民が満洲に渡った。

日本の敗戦が色濃くなった1945年、守ってくれるはずの関東軍は南下してしまい、残された開拓民は、侵攻してくるソ連軍に助けを求めることを決め、その見返りとして、未婚の18歳以上の女性15人を「性接待」として提供した。その中で亡くなった女性もいた。深く傷ついた女性たちは、帰国後ふるさとに戻ってからも差別と偏見の目にさらされた。

長い間沈黙を守ってきた女性たちだったが、「なかったことにはできない」と2013年についに重い口を開いた。

 

私は、終戦後、満洲引き揚げ前に、このような壮絶な史実があったことを全く知らなかった。

勇気を持って語り始めた当事者女性たち、そしてそれを受け止めた家族や遺族たち。

戦時下の性暴力は「戦争なのだから仕方がない」と語られることがあるが、その支配の構造は、男性優位の社会の中で、現在の私たちの生活に続いているのではないだろうかと思う。

映画の中に、「内なる加害」を犯した男性らの言葉がなかったのが残念だった。

 

白川町にある佐久良太神社には、1982年に「乙女の碑」が建立された。だが、その時は何の説明文もなく、2023年になって、過去を語る碑文ができたとのこと。

 

是非、一度、訪れてみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏山登山~中央アルプス・三ノ沢岳~

今夏の登山は、8月初め、中央アルプス・三ノ沢岳(2847m)に向かった。

登山をする人からも「三ノ沢岳ってどこの山?」と聞かれるほどマイナーな山。

 

実は、私にとって、三ノ沢岳はリベンジ登山だった。

2018年8月、同年5月にガン宣告された亡夫が計画してくれて一緒に登ったが、あいにくの天候悪化で、山頂直下のケルンで引き返した。だから是非、登頂してみたかった。今回は、山仲間3人が同行してくれた。

 

三ノ沢岳は、中央アルプス・宝剣岳から西へと派生する支尾根上の独立峰的存在の山で、直登するコースはない。

駒ヶ岳ロープウェイで千畳敷カールまで上がり、そこから左に進み、主稜の極楽平まで登り、三ノ沢分岐からは三ノ沢岳を正面に見ながら下り、その後はアップダウンを経て、山頂に至る。帰りは往路を戻る。

 

まず、問題は、ロープウエイの終点の千畳敷駅に何時に到着できるかということだった。夏山登山の真っ只中、千畳敷カールまで行くには、バスに乗ってしらび平まで行き、そこからロープウェイで千畳敷まで上がる。そのルートは、人気の宝剣岳や木曽駒ヶ岳に登る登山者や千畳敷カールで過ごす観光客がたくさん利用する。始発のバスは午前6時15分だが、何時のバスに乗れるかがその後の行動にとても影響してくる。

 

順番待ちをすべく、朝、午前4時半に、バスターミナルに到着する。

 

 

既に、私たちの前には、バス待ちのための約70個のリュックが置かれていた。

午前6時10分頃に臨時バスが2台出て、幸い私たちはその2台目に乗ることが出来、午前7時には千畳敷駅に到着することができた。

 

 

私たちは駒ヶ根神社の前を左方向に進み、極楽平まで登る。ここまで登り切ると、目の前に三ノ沢岳の優美な三角錐が目に飛び込んでくる。独立峰的存在なので、その姿はとても美しい。

また今日は快晴なので、周囲の山々をすべて望むことができる。

更に、三ノ沢分岐まで進む。ここから宝剣岳へは真っ直ぐ進み、三ノ沢岳へは左へと進んで行く。

 

 

2880mの三ノ沢岳分岐から、三ノ沢岳を正面に見ながら、最低鞍部(2650m)まで下り、そこからアップダウンを経て、また山頂まで急坂を上り返す。登山道ははっきりしているが、狭く、しかもハイマツが繁って時々足にあたって痛く、歩きにくい。でも、眺望は抜群だ。

 

ようやくケルンに至る。

 

 

前回はここまで来たが、ガスでほとんど何も見えなかった場所。

やがて山頂に到着する。山頂は狭いが、360度の素晴らしい展望。

後方は御嶽山。

 

 

リベンジ登山が実現できて良かった!

最近、NHKはドキュメンタリーやドラマなど、優れた番組を作っているなあという実感がある。

2025年8月8日午後11時25分からNHKBSで放映された「原爆裁判~被爆者と弁護士たちの闘い~」もそうだ

 

「原爆裁判」は、NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルとなった三淵嘉子さんが裁判官として実際に関わった裁判で、「虎に翼」にも登場した。

「原爆裁判」は、アメリカによる原爆投下は国際法に違反するので、その受けた損害の賠償を日本政府に請求した裁判で、原告被爆者5人によって1955年4月に東京地裁と大阪地裁に提訴され、2つの訴訟は東京地裁に併合され審理され、8年後の1963年12月7日判決が言い渡された。

 

過去の著明な裁判の1つだが、私は、大学で教わった記憶もないし、司法試験の受験勉強の中で憲法判例として紹介されてもおらず読んだこともなく、「虎に翼」を観て初めて知った。

 

今回のドキュメンタリーは、「原爆裁判」提訴にあたった岡本尚一弁護士や原告となった被爆者川島登智子さんらに焦点をあてて描かれていた。

 

岡本尚一弁護士は、1892年生まれ、提訴時の1955年は63歳、提訴3年後66歳志半ばで他界されている。

いつの時代にも優れた活動を行う弁護士がおられ、私などはとうてい足元にも及ばないといつも思っている。

岡本弁護士は、終戦後10年も経っていない時に、原爆裁判の法的な理屈を検討し、アメリカを被告にできないかとまで考えられた。「この提訴は悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けることだけではなく、原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるであろう」との檄文を多くの弁護士に送って共同を呼びかけたが、それに応えたのは松井康浩弁護士だけであった。

 

いくら崇高な目的を持った裁判でも、当事者原告が存在しなければ裁判は始まらない。

岡本弁護士の思いに応えた原告は5人。世間の視線が偏見と差別にとらわれている場合もあり、被爆者であること自体を隠したい人が多くいる中で、5人は原告となった。

その中に、今回ドキュメンタリーで取り上げられた川島登智子さんがいた。提訴時24歳。

NHKの金子麻理子ディレクターはご遺族を探し出し、娘時田百合子さんにたどりついたが、時田さんは母親が「原爆裁判」の原告であったことを知らなかった。登智子さんは、なぜ原告になったのか、また、なぜそれを一言も語らなかったのだろうか。番組は、訴状の中で名前が出てくる登智子さんの妹詔子(のりこ)さん(被爆後養女に出された)を訪ねたが、詔子さんも裁判のことは全く知らなかった。

 

それぞれの原告には、私たちの想像を超える人生がその後も続いた。

 

1963年12月7日に言い渡された「原爆裁判」の判決については、以前の私のブログで紹介したとおりである。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2024/09/6895.html

 

ただ、判決は、原告代理人であった松井康浩弁護士が語ったとおり、「被爆者としては、政治の貧困を嘆かれても現実の救済にならないのであって、裁判所から見放されては、もはや救われないものであ」った。

そして、その後のたゆまぬ反核運動の中で、2021年、世界でやっと「核兵器のいかなる使用も武力紛争に適用される国際法に違反する」という核兵器禁止条約が発効した。ただ、日本政府は未だにこの条約を批准していない。

 

原爆投下から80年経った現在、そして世界で紛争が続く現在、あらためて平和を考える機会となった。

 

 

 

 

長く京都に住んでいるので、色々な祭りがあっても、わざわざ見に行くことはほとんどない。

祇園祭しかり。しかも京都の夏は、もうムチャクチャ暑いので、余計に出掛ける気にはならない。

 

昨日24日午前中、たまたま事務所から烏丸三条周辺まで行く用があった。

事務所から御池通り手前まで至って、ようやく24日が祇園祭の後祭(あとまつり)の山鉾巡行の日であることに気がついた。

今年の前祭の山鉾巡行は、7月17日大雨の中、行われた。

24日はうってかわって、快晴の猛暑日。この日京都は37.9度という今季一番の暑さを記録した。でも、晴れて良かった。

 

三条通に行くには、御池通りを横断しなければならない。御池通の道路脇はさほど混んでいなかったので、しばし、巡行を見入った。

ちょうど北観音鉾が通るところだった。

 

 

こんなふうに、たまたま祭りを見ることができるのも、京都に住んでいる者の特典だなあ。

ちなみに、四条通りから来た知人に聞くと、四条通りは一杯の見物人だったとか。

 

 

富士山  山開き 2025

富士山に登るには、4つのルートがある。

山梨県側の吉田ルート、そして静岡県側の須走(すばしり)ルート、御殿場ルート、富士宮ルートである。吉田ルートが7月1日に開通し、静岡県側の3ルートも昨日7月10日開通した。いずれも9月10日まで。

 

無謀な登山が問題になる中、昨年の山梨県側に続き、今年は静岡県側でも規制が始まった。

スマホアプリを使った登録制となり、入山料4000円の支払いと登山ルールの学習が義務付けられた(2025年7月11日毎日新聞朝刊)とのこと。

弾丸登山や軽装登山などの無謀な登山者がいることや、日本一高い山で、世界文化遺産にも登録された富士山に登りたいと外国人も含め、ひと夏で何十万人もの登山者が殺到するため、環境保全の観点からもやむを得ない措置と言えよう。

 

私は、日本百名山踏破のため、2010年8月末に登った。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2011/02/4617.html

 

私の友人の山仲間の間では、富士山は、「登る」山ではなく、周囲の他の山から「見る」山だというのが定説であり、私も全く同感である。

独立峰で、雪を抱いた山容。これこそが、いつまでも見飽きることのない素晴らしい姿だと思う。

 

 

 

 

 

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