1. ブログ マチベンの日々

ブログ マチベンの日々

2023年3月3日と同月13日の2回、当ブログで映画「生きる」をご紹介しました

先日、この映画が第78回毎日映画コンクールでドキュメンタリー映画賞を受賞したという嬉しい知らせが、同期の友人で、この映画にも登場している仙台の吉岡弁護士からメールにより報告がありました。

 

映画「生きる」は、2011年3月11日東日本大震災が発生した日に、宮城県石巻市大川小学校の児童74名がすぐ側に裏山があったにもかかわらず校庭で約51分待たされた挙げ句、70名の命が失われ、4名の児童が行方不明となった事件の、裁判を闘った遺族らのドキュメンタリーです。なぜ、子どもたちは死ななければならなかったのか・・・親らと代理人弁護士2人の姿を追いました。

 

京都では、2023年3月上映されました。

 

毎日映画コンクールの選考委員からは、「記録に残された息遣いから感じられる親たちの悲痛な叫びと、なんとしても真実を明らかにするのだという執念が胸をつく。圧倒的不利と言われた裁判で画期的な勝利をつかんだ過程も貴重な記録だ。映画として、広く後世に伝え続けていくべき、意義のある作品だ」と受賞の講評がなされています。

 

再上映があれば、是非、ご覧ください。

 

2024年1月22日、京都弁護士会両性の平等に関する委員会主催で、東京から心理カウンセラー信田さよ子さんをお招きし、「精神的DVについて」と題して会内研修会を開催しました。

 

2024年4月から「精神的暴力」がDV法の保護命令の対象に加わる改正法が施行されることから、家庭内における精神的DVの実態、被害者像や加害者像などについてお話いただきました。

今回は、会内だけでなく、普段お世話になっている行政の相談員の方々にもご案内し、たくさんの相談員の皆さんにも参加いただきました。

 

実は、信田さんは、私の高校の先輩にあたります。妹のKちゃんとは、高校1年の時同じクラスでした。若い頃に、信田さんという著名なカウンセラーが先輩で、かつKちゃんのお姉さんであることを知り、1度、お話を聴いてみたいと長年思っていました。

すると、たまたま、京都弁護士会に所属されていた元弁護士で高校の先輩であるSさんが信田さんと高校時代の同級生で仲がいいということを知り、Sさんを通じてお願いし、今回の研修開催に至りました。私の夢が実現しました。

 

偶然、朝日新聞朝刊「語る~人生の贈りもの~」という欄で、2023年11月6日から14回にわたって、信田さんの半生が語られるというシリーズが掲載されたこともあり、事前に信田さんが歩んでこられた道も少し知ることになりました。

 

長年、DV被害者のカウンセリングをされてきた信田さんは、精神的DVが保護命令の対象とされることになったことについて「何を今更」「やっと法律が追いついた」という思いだったそうです。

しかし、現在のDV法は、被害者が逃げるしかないしくみであり、加害者に対する手当はなく「野放し」状態であるとも指摘されました。

 

DVの被害者は自分が「被害者である」という自覚がなく、「自分が悪かったから、夫が暴力を振るった」と自分自身を責め続ける人も少なくありません。他方、夫の方は「自分の方が被害者だ」「妻が俺に暴力を振るわせた」という被害者意識に満ちています。

 

海外では、DVを犯した加害者に対し、「加害者プログラム」を受講することを義務づける国もあるそうです。

私は、長年離婚事件を担当してきて、「人間なんてそんなに簡単に変わるわけない」と思ってきましたが、イヤイヤながらも「加害者プログラム」を受講して変わる加害者もいることを知り、日本でもそのような法改正が必要だとああらためて思いました。

 

信田さんは、DV被害を個人の問題にせず、家族のしくみや女性たちが置かれた状況からアプローチをされてきました。それがやっと、社会的に認知されるようになってきました。

閉鎖的な社会の中で、女性として道を切り拓いてこられた信田さん。誇れる先輩です。

 

 

 

 

 

福山和人弁護士、京都市長選挙に立候補

今日2024年1月21日は、京都市長選挙の告示日です。投票日は2月4日。

同じ事務所の福山和人弁護士が立候補し、いずれも無所属新人の4人で争われます。

 

午前11時、京都市役所前での福山さんの訴えを聴きに行ってきました。

 

 

福山弁護士は、これまで弁護士として、アスベスト訴訟や原発差止訴訟など国や大企業などを相手に、働く人や市民らの自由と権利を守るための裁判に多数関わってきました。その優しい人柄と熱い人情は、誰もが認めるところです。しかも、常に持ち前のリーダーシップで裁判を牽引してきました。

 

財政難を口実に市民の暮らしをどんどん圧迫する京都市政を、市民に寄り添った市政に大転換してくれることは間違いありません。

 

2月4日には、「福」が来ますように!

 

 

1月14日、全国都道府県対抗女子駅伝

1月14日(日)、京都で全国都道府県女子駅伝が開催された。

数日前から、事務所近辺でも若いランナーたちが練習しているのにすれ違っていた。

大会当日は、前日とはうってかわって晴天。

毎年恒例なので、ここ数年は、生はもとよりテレビでも観ていなかったが、今年は、大震災のあった石川県を応援したいという気持ちもあって、テレビで観戦した。

 

1区石川の五島選手がほぼ最初からトップを独走したのには、涙した。

また、2区兵庫の田中選手の19人抜きは圧巻だった。さすが田中さん!

 

丸太町通りは、熊野神社から烏丸通りまでがコースの一部なので、折り返し後、とうとう私も丸太町通りまで出て、直接、選手たちに応援の声をかけた。

 

京都は、9区で7位から2位へ浮上。いつも強い!

石川の選手らは全員が揃ったのは大会2日前とのことで、よく頑張った。

 

久々に若い息吹に触れた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

本年もよろしくお願いします

明けましておめでとうございます。

 

正月早々に起こった石川県能登の大地震。

正月を「祝う」気持ちなど一度に吹き飛んでしまいました。

まだ被害の全容も不明で、救助や支援の手が十分行き届いていない人達がおられることに本当に心が痛みます。

 

災害はいつどこで起こるかわかりません。十分な備えが必要とあらためて思いました。

また支援については、今、自分にできることを考えて行っていこうとも思いました。

 

事務所は、昨日1月5日から業務を開始し、所員皆そろって、顔合わせができました。

また、1月から秋田智行さんというフレッシュな弁護士を迎えることもできました。

(なお、福山弁護士は、京都市長選挙に向けて奮闘中のため欠席でした。)

 

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

今年も有り難うございました

本当は、12月30日夜行バスツアーで山梨県の山「竜ヶ岳」に登って、眼前の富士山から登るダイヤモンド富士を見るはずでした。

 

やはり私は雨女?とつくづく思いました。だって31日だけ全国的に雨予報なんだもの・・日の出なんて絶対見られない

 

出掛けるギリギリまで迷った末、直前にキャンセルしました。

まあ、こんなこともありますわ。

 

今年も色んなことがありました。人との出会い、再会、旅の思い出・・・有り難うございました。

来年も「今が一番楽しい」と思える年になったらなって願っています。

 

 

 

 

 

 

コーヒーの入れ方

今年(2023年)最後の仕事は、12月27日午後、京田辺市の女性交流支援ルームの法律相談だった。

 

京田辺に行く時には、必ずCafe「きんこや」さんに寄る。

店主のきんこさんとは、もうすっかり顔なじみになった。

近鉄新田辺駅からは徒歩で25分位かかるので、暑い夏はきつかったが、今頃の季節は歩くのも快適だ。

27日も、元依頼者のMさんとランチの時間に「きんこや」で待ち合わせた。

 

カウンター席で同席する、見知らぬお客さんらとも、きんこさんを中心に話がはずんだ。

ランチ後、きんこさんからコーヒーを入れてもらいながら、コーヒーの入れ方についての話を聞く。

きんこさんのコーヒーの入れ方は、もちろん専門家に習った方法だ。

「でも、同じ専門家でも、人によって、入れ方違うんやで」と。

きんこさんの方法ではないとのことだったが、一番最初、お湯でコーヒーの粉を膨らませた時に出るコーヒーは捨てるやり方があるとのこと。この方がコーヒーの苦みがなくなるんだとか。

 

初めて聞いた!

 

それで、ここ2日間、朝コーヒーを入れる時、そのやり方で入れてみた。

確かに味が違う!味がまろやかだ!

 

年に数回しか訪れることがない「きんこや」だが、来年も楽しみ!

 

 

 

 

 

 

 

 

クリスマスケーキ

クリスマスと言っても、特に何か特別なことをすることはありませんが、今年は、友人から「ケーキを作ったから食べに来て」とのお誘いがあり、12月25日、飛んで行きました。

 

友人手作りのデコレーションケーキです。美味しそう!

 

 

飾りは、生のブドウです。

 

 

甘さ控えめで、とても美味でした!!

 

小説「看守の流儀」(城山真一著)

事務長から、京都法律事務所の新年号の原稿の校正を頼まれ、所員の原稿を読んでいると、小笠原弁護士の原稿「おすすめの一冊」で紹介されていた小説「看守の流儀」(城山真一著)が目に止まった。

 

小笠原弁護士の大学の同窓生である山本弁護士から「凄っ!」と言って薦められたとのことで、小笠原弁護士も「確かに凄っ!」と書いていた。

全く読んだことがない著者であったが、二人の弁護士が「凄っ!」と感じた本にとても興味が沸き、早速、小笠原弁護士に「看守の流儀」を借りて読んだ。

 

石川県金沢市の金沢刑務所を舞台に、刑務官と受刑者との間で繰り広げられる5つの物語(短編)「ヨンピン」「Gとれ」「レッドゾーン」「ガラ受け」「お礼参り」から成る。

 

読み終わって、本当に「凄っ!」と思った。

ミステリー小説なのに、人間ドラマが展開され、泣ける。

 

5つの物語は、どれも受刑者の1人「歌手」の三上順太郞の刑務所手記「プリズン・ダイアリー」の抜粋から始まり、続いて、1癖も2癖もある受刑者と対峙する刑務官の苦悩や「事件」が描かれる。

過去に何かを負っている得体の知れない警備指導官火石司(ひいしつかさ)の存在も気にかかる。

 

そして、第5話の「お礼参り」で、驚きの結末が用意されていたのだった。

 

私も是非オススメする1冊です。年末年始にいかがですか。

 

 

 

 

 

 

京都祇園「十二段屋本店」で忘年会

友人のA弁護士の事務所の忘年会に誘ってもらい、参加した。

場所は、京都祇園にある「十二段屋本店」。老舗だが、これまで訪れたことはなかった。

 

A弁護士からは、事前に、十二段屋について書かれている本の抜粋を渡された。

タイトルは、「民藝運動家たちとしゃぶしゃぶ」。

時は昭和20年代。十二段屋の2代目店主西垣光温氏による「しゃぶしゃぶ誕生物語」であった。

 

十二段屋に到着。

 

 

玄関に入ると、本で紹介されていた、光温氏がデザインしたと言う煙突のようなものが付いた銅鍋が飾られていた。

 

 

現在、使用されている鍋は、これとは少し異なるとのこと。

 

2階の畳部屋の個室に案内された。

その部屋には、民藝運動に傾倒していた光温氏が、売れない時代に店に住まわせていたという棟方志功が描いたふすま絵がずらりと並び、河井寛次郎など多くの陶芸家らの作品も無造作に(手に取ることができる)飾られてあった。

まるでギャラリーのような部屋だった。

 

 

「十二段屋」の名物料理は、「しゃぶしゃぶ」である。

本にその由来が書かれてある。

それによると、光温氏が、京都の骨董街で風変わりな中国の銅鍋を見つけ、店の玄関に飾っていたところ、軍医として満洲に行っていた鳥取県の医師吉田璋也からその鍋が中国の鍋料理「シュワヤンロウ」に使う鍋であることを聞き、その料理を何度も試行錯誤を重ね「牛肉の水炊き」として日本風にアレンジしたということだった。

 

 

 

 

本には、「うちのしゃぶしゃぶは、まったくアクが出ない」と書かれてあり、本当にアクは全く出なかった。

仲居さんに「なぜ?」と尋ねたが、銅鍋の構造と燃料が炭であること以外にはよくわからないという返答だった。

 

肉も柔らかく、美味しかったことは言うまでもない。

 

なんか、すごく格調高い忘年会であったような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「軟弱古書店」に行って来ました

「軟弱古書店」に行って来ました。

 

と書いても、「それ、何?」って感じですよね。

山の本を取り扱う古本屋さんなんです。

 

今年秋頃から断捨離を始めていますが、読み終わった本については、いつもは、興味を持ってくれた誰かに贈呈する、ブックオフに持って行く、等して処分しています。

一緒に登山を楽しんだ亡夫がたくさんの山のガイドブックなどを持っていたので、京都のどこかに山関係の古本を扱う店はないかしら?とネットで探したところ、見つけたのが「軟弱古書店」でした。場所は、左京区の京大吉田寮の東側でした。

限られた日にしかオープンされていないようなので、とりあえずメールで連絡を取り、ガイドブックのような本と山岳小説などでも良いかと尋ねたら、お越しくださいとの返信が届きました。

 

キャリーケースに入るだけの本を詰め込んで、先日、尋ねてみました。

 

店は、京大吉田寮東側の通りに面した「白亜荘」という建物の2階にありました。

白亜荘は、大正初期に、修道院が女性信者のために建てた建物だそうです。

私の京大学生時代に既にあった建物ですが、吉田寮の東側の通りはほとんど歩いたことがなく、知りませんでした。

近衛通りから上がってすぐかと思い込んでいましたが、結構、北にありました。とてもレトロな雰囲気の建物です。

 

 

 

店主は、中山幹彦さん。

直接、尋ねてはいませんが、他の方のブログによると、「軟弱」という店名の由来は、中山さんが大学の探検部に所属されていた時、ことあるごとに先輩から「この軟弱者が!」を怒られていたことと、登山にはいろんな関わり方や楽しみ方があるから、と書かれていました。

 

店は、4畳半程の広さの部屋の壁にそって本棚があり、そこに山の本がびっしり並べられていました。珍しい本が一杯ありました。

 

 

中山さんは、口調も穏やかで物腰も柔らかそうな方でしたが、さすが探検部出身!、単独で、登山はもとより雪山や海外登山にも行かれるとのことで、話がはずみました。

 

持参した本については、ブックオフなどとは比較にならないほど高額で買い取っていただきました。

今回、持参しきれなかった本がまだ残っているので、「また、来ます」と言って、店をあとにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋晴れの日曜日(11月26日)、友人のO弁護士夫妻と一緒に、滋賀県・佐川美術館で開催中の「ガウディとサグラダ・ファミリア展」に行って来た。

 

 

スペインでは、アンダルシア地方を旅したことはあるが、バルセロナへは行ったことがない。約140年にもわたって建設が続く「未完の聖堂」サグラダ・ファミリアには、とても興味があった。

 

佐川美術館へは何年かぶりに訪れた。

入場は予約制で、そのことを直前に気づいて少し慌てたが、それでも普段とは異なり、館内は人であふれかえっていた。

 

 

 

サグラダ・ファミリアについては、これまで全景のイメージがなんとなく頭にあったが、細部についての知識は全くなかった。

聖堂内の森の木々のように枝分かれした円柱、星形が次第に円形になっていく柱、光を調和させるためのステンドグラス、直線で作る曲面、上部にはバルセロナらしいカラータイルが貼られた塔、そして最上部の星形のシンボルは「希望」の象徴で光がともる・・・幾何学も取り入れて何年も試行錯誤を重ねた独創的なデザインなど、どれも目をみはる物ばかりで、とても勉強になった

ドローンを使って撮影されたであろう映像もあり、観光で訪れただけでは決して見られない細部まで、目にすることができた。

 

主任建築家のジョルディ・ファウリさんは、「私たちがここまで前進してこられたのは、ガウディが未来を強く信頼していたからだと感じます。彼が目指したのは信仰や思想、国などで分け隔てず、誰にも開かれた場所。未来のために私たちもその思いを持ち続けることが必要です」と語る(2023年8月25日付け京都新聞)。

 

最近あまり海外に行きたいと思わなかったが、バルセロナには是非行ってみたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「宝塚」に思う

関西出身ではないが、兵庫県西宮市に叔母がおり、小学校低学年の時、初めて「宝塚」を観に連れて行ってもらった。踊ることが好きなこともあって、以来、「宝塚」は私の憧れとなり、何回か観劇した。とりわけ「ベルサイユのバラ」(アンドレとオスカル編)は、今も歌詞が口に出てくるほどハマった。「宝塚」は夢の世界であった。

 

「宝塚」におけるレッスンや上下関係の厳しさは、テレビで元タカラジェンヌ達が語っているのを観ることもあったので、そんなもんなんだろうなと思っていた。

しかし、25歳の劇団員が自死し、それが過労や先輩劇団員のパワハラが原因だとすると、伝統だと言って居直っていいはずがない。

劇団側は、過重労働を認める一方、パワハラやいじめの事実は確認できなかったとした。

現在の劇団員はもとより、元劇団員も含め、自由に真実を語れる環境で、第三者委員会が事情聴取を行ってほしい。

 

現在放映中で人気のNHK朝ドラ「ブギウギ」のモデル笠置シズ子を落としたのは今の宝塚音楽学校だというから、同時期に皮肉なものだ。

 

「宝塚」の華やかな舞台を思い出しても、その裏で想像を超える理不尽な行為が存在するのであれば、私たち観客はとても「夢」を見ることはできない。

 

パープルリボン月間

今年も、京都市男女共同参画センター・ウイングス京都では、11月2日から30日までを「パープルリボン月間」(=女性をはじめ、あらゆるジェンダー・セクシュアリティを持つ人への暴力に反対する1ヶ月)として、様々なイベントが予定されています。

 

 

また、京都府でも、11月12日から25日を配偶者等から暴力をなくす啓発期間として、講演・シンポジュウム・イベント、パープルライトアップなどが企画されています。

10月5日に長野市で日本弁護士連合会の人権シンポジュウムが開催され、それに参加した京都のA弁護士と神奈川のN弁護士と合流して、7日、高社山(こうしゃさん)に登った。

 

高社山は、中野市・山ノ内町・木島平村の境に位置する独立峰の山で、「高井富士」とも呼ばれる。北信濃の象徴的な山だ。

 

登山ルートはいくつかあるが、私たちは中野市側の谷厳寺(ごくごんじ)から登った。

 

 

高社山は山岳信仰の山で、特に谷厳寺からの登山ルートには、登山道脇に13個の石仏が設置されている。登山ルートからはあまり眺望はないが、石仏に出会いながら歩くのも面白い。

 

約3時間で登頂。山頂からの眺望は良い。

 

 

 

下山は、「熊が登山道にいたので、別ルートで下りる」と言って登り返してきた男性とすれ違った。

私たちは、熊除けの鈴をつけ、大声でわめきながら下り、無事、熊に遭遇することなく、下山できた。

 

下山後まだ時間があったので、谷厳寺を見学することにした。この寺は、春には桜、初夏にはあじさいが咲き、たくさんの人が訪れるとのこと。

そして、広場には、なんと、立派な憲法9条の碑が建立されていた。高さは約2メートル位もある御影石に憲法9条の全文と鳩が刻まれていた。

 

 

なぜここに憲法9条の碑があるのか、その謂われはどこにも書かれていなかったので、インターネットで調べてみた。

 

この寺は、戦時中の1944年学童疎開を受けて入れていたという歴史があり、また、中野地方から「満蒙開拓団」に参加した開拓団の名前が「高社郷開拓団」であり、寺が高社山登山口であることなどから、再び戦争を繰り返してはいけないとして、20年ほど前に平和を求める当時の住職が建立したとのこと。

 

軽めの登山だったが、思い掛けず「9条」との出会いもあり、良い山旅だった。

 

 

吉田山に幻の巨大防空壕

太平洋戦争末期の1945年、京都帝国大学(現 京都大学)が実験器具などを守るため、近くの吉田山に全長約100mの防空壕を設ける計画を進めていた(2023年9月13日付け京都新聞朝刊)。

 

初めて聞いた話だった。

同新聞記事には「今回、初めて設計図などの資料が見つかり、『幻の防空壕』の存在が裏付けられた」と書かれているので、これまであまり公にはされてこなかったのだろう。

 

設計図と契約書が、京大百周年時計台記念館で開催中の企画展「京大生の『戦争』で展示されているとのことだったので、9月24日に行って来た。

 

ようやく少し涼しくなってきたので、早朝、蹴上から東山トレイル道を登って大文字山山頂に行き、山頂から火床まで下りる。

火床から、吉田山の全景を撮影する。写真中央の緑が吉田山。

 

 

銀閣寺登山口に下山して、京大まで歩く。

 

京大百周年時計台記念館で開催中の企画展は、11月5日まで。

 

 

吉田山防空壕については、戦争末期の1945年2月、大学の重要施設を移転するため地下壕を作るよう命じられた当時営繕課長を務めた故西山卯三名誉教授が戦後になって計画を回想した記録(京大広報第234号)が残っていただけだった。

それ以外の記録は長らく見つかっていなかったが、昨年、京大文書館が所蔵資料の中から設計図と契約書を偶然見つけたとのこと。

防空壕の設計図も契約書もガラスケースの中で展示され、残念ながら細かい字は読み取ることができなかった。

 

 

契約書の締結は、1945年7月25日で、「10mも掘らぬうちに敗戦を迎えた」そうで、掘った穴は11月に埋め戻された。

 

吉田山と京大にこんな歴史があったんだ・・・

 

 

 

絵手紙と小池邦夫さん

「ヘタでいい ヘタがいい 生きて行くことと同じだよ」

 

2023年8月31日、82歳で亡くなった絵手紙の創始者小池邦夫さんの有名な言葉である。

この言葉を「信じて」絵手紙にはまった人は、たくさんいるだろう。何を隠そう、私もその一人だった。

若い頃に一時期はまって、絵手紙教室にも通い、筆や顔彩など絵手紙セットも購入した。でも、その後、他の趣味に気持ちが移り、今は全く描いていない。

 

「ヘタでいい ヘタがいい」と言っても、絵手紙を描くことが簡単なわけではない。

小池さんは言う「動かなければ出会えない」「昨日の自分をなぞっていては相手に熱は伝わらない」。

自分の感性・感受性が豊かでないと、思いを文字で表現することも、心打つ絵を描くこともなかなかできない。

 

もう何年も前に、山梨県忍野村(おしのむら)にある「小池邦夫絵手紙美術館」を訪れた。

ここには、小池さんの初期から近代まで約300点もの作品が展示されているほか、全国から寄せられた一般の人々の絵手紙も展示されており、たくさんのあたたかい絵と言葉に触れることができ、とても、ほっこりできる美術館である。

館内から真正面に富士山を望むことができるのも素晴らしい。小池さんの言葉「どんなに小さくても富士山が見えたら元気になる。小さくならずにいられる。」

 

もう1度、訪れてみたい。

 

 

 

 

「暗幕のゲルニカ」(原田マハ 著)を読んで

私がスペインでパブロ・ピカソの「ゲルニカ」を見たのは、1986年だった。

当時「ゲルニカ」は、マドリッドのプラド美術館で展示されていたと思う。

スペイン内戦のさなかの1937年4月26日、スペイン共和国政府を攻撃したフランコ将軍に加担したナチス・ヒットラーは、スペイン北部バスク地方の最古の小さな村「ゲルニカ」を、人類史上初めて空爆した。無差別殺戮である。同じ1937年5月25日から11月25日までパリ万博が開催され、スペイン政府から依頼を受けたピカソは「ゲルニカ」を完成させ、万博スペイン館にて一般公開された。

「ゲルニカ」に対面した当時、私は、スペイン内戦の歴史の詳細はほとんど知らなかったが、349㎝×770㎝の巨大なキャンバスに描かれた「ゲルニカ」には、兵隊も武器も描かれていないが、死んだ子どもを抱く母親の慟哭、馬のいななき・・・まぎれもなく戦争の悲惨さが描れ、その迫力に圧倒された。

 

そして、この小説「暗幕のゲルニカ」を読んで、何十年かぶりに、「ゲルニカ」を思い出すとともに、歴史に翻弄される「ゲルニカ」の過去を知ることになった。

 

実は、「ゲルニカ」には、他にもエピソードがあることを、この小説を読んで初めて知った。

戦後、国連本部がニューヨークにできる時、ピカソの承諾を得て、「ゲルニカ」のタペストリーが反戦と平和の象徴として安保理の会議室に入る前のロビーに飾られることになった。

2001年9月にアメリカで同時多発テロが起きた。ブッシュ大統領は、次の標的をイラクと狙いを定め、2003年2月、コリン・パウエル国務長官は、国連安全保障理事会ロビーで「イラクには大量破壊兵器が存在した」と記者会見を開いた。しかし、その時、長官の後ろに位置する場所にあるはずの「ゲルニカ」には、なんと暗幕がかけられていた・・・・そしてアメリカはイラク戦争へ突入

 

この史実「暗幕のゲルニカ事件」をきっかけに、原田さんは、この小説を誕生させた。

 

小説「暗幕のゲルニカ」は、2つの時間軸の物語が交互に並行して展開していく。

1つは、「ゲルニカ」製作前後の1937年から1945年。この時期、戦時下のパリでピカソと暮らした愛人で写真家のドラ・マールの心情を描く。ドラの目を通して、ピカソの怒りや苦悩、ピカソが「ゲルニカ」に込めたものも語られる。

2つは、同時多発テロが起こった2001年から2003年まで。アメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)でキューレーターとして勤務するピカソ研究家の八神瑤子。夫イーサンを同時多発テロで失い、2003年に開催する「ピカソ展」の責任者としてスペインから「ゲルニカ」を借り受けたいと強く思っている。アートを通して平和を訴えるために・・・そこに立ちはだかる大きな困難。

 

「ゲルニカ」は、ピカソの絵ではなく、「私たち」の絵。反戦のシンボルであり、「私たちの戦争」の象徴である。

 

小説の中で、この言葉が何度も出てくることが、アートで、あるいは文字で訴える、戦争に反対し平和を求める強い思いであろう。

 

折しも、今年はピカソ没後50年、そして、ウクライナ戦争の終わりも見えない。残念ながら、現在にも通じる思いである。

 

なお、「スペインに真の民主主義が訪れるまで保護してほしい」というピカソの希望で、MoMAに貯蔵されていた「ゲルニカ」は、1981年にスペインに返還され、1992年にソフィア王妃芸術センターに展示されるようになった。以後、一度も他に貸し出されてはいないとのこと。

おそらく私は、スペインで、再び「ゲルニカ」を見ることはないと思うが、世界にたった3つしかない「ゲルニカ」のタペストリーが群馬県立美術館にあることを知った。せめてそのタペストリーはもう1度見たいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木村セツさんの新聞ちぎり絵原画展へ

「新聞ちぎり絵」なるものを知ったのは、つい1年前のこと。

知り合いになった名古屋在住の友人作成の絵手紙には、新聞ちぎり絵が描かれていた。その淡い色合いにとても惹かれた。

 

「94歳の新聞ちぎり絵作家」がいることも知った。奈良県在住の木村セツさんだ。

SNSのフォロワー数はなんと12万人超とのこと。

新聞ちぎり絵は、手で細かくちぎった新聞紙(主にはカラー刷りページ)を、鉛筆で書いた下絵の上にのりで貼って重ねていく。とても緻密な作業だ。

 

その木村セツさんの原画展が、8月1日から15日まで、事務所近くの誠光社という書店で開催されることを知り、行ってきた。

 

身近なものを題材とされており、その淡い色合いと、よく見るとところどころに新聞の文字が見えるのが面白い。絵のデザインも素敵だ。

 

 

 

名古屋の友人には、是非、京都に来た折には、「新聞ちぎり絵」の講習会を開催してほしいとお願いしてある。

セツさんは、90歳からちぎり絵を始めたという。新しいことに挑戦する意欲が素晴らしいね。

 

憧れの栂海(つがみ)新道縦走は過酷だった

「次はどこの山に登るの?」と聞かれ、「朝日岳から栂海(つがみ)新道を歩く」と答えると、それなりの登山経験者じゃないと、「それどこ?」ということになる。

栂海新道は、知る人ぞ知る登山道だ。

 

栂海新道は、北アルプスの朝日岳(2418.3m)と北アルプスの最北端の新潟県親不知海岸(海抜0m)をつなぐ約27㎞の縦走路である。

3000m級の山から海へ・・・このような縦走路は他にはない。聞いただけで夢とロマンがあふれる。

亡小野健さんら「さわがに山の会」の人達が約11年もの歳月をかけて切り拓き、1971年登山道は開通した。

そこを歩くことは長年の私の夢だった。

そして、とうとう7月末、栂海新道を踏破した。ヘトヘトになりながら・・・・

 

雨が降ったりして目的の山に登れない時、かつて登山仲間の間では「山は逃げないから。また次ね。」という会話が飛び交っていた。しかし、年を重ねるとともに、体力の低下は著しく、最近は「山は逃げないけど、私たちの方が登れなくなるよね」という会話に変わっていった。

自分自身でも体力の低下は十分自覚しており、出発日が近づくにつれ、本当に歩き通せるのだろうかという不安と緊張で一杯になった。

 

1日目は、朝日岳の小屋(朝日小屋2140m)へ。

朝日岳は、2000m級の山としては、北アルプスの最北に位置する。

富山県から入り、北又小屋(690m)からイブリ尾根を登る。標高差1450m。急登の連続だったが、こまめに休憩を取ったせいか、心臓バクバク、呼吸ハアハアというほどではなかった。

朝日小屋は3回目の泊だったが、食事がとても美味しいことで有名で、オススメの小屋だ。また小屋主の清水ゆかりさんは、最近、出版された「彼女たちの山  平成の時代、女性はどう山を登ったか」(山と渓谷社)という本にも登場されている。

 

2日目。いよいよ朝日岳を経て、吹上のコル(分岐)から栂海新道に足を踏み入れる。この日は、栂海山荘(無人小屋)まで。

 

吹上のコルから朝日岳を望む

 

最初は、チングルマやハクサンコザクラなどたくさんの高山植物が咲くなだらかな登山道を歩く。アヤメ平には、青紫のヒオウギアヤメが満開に咲いている。まさに天上の楽園。

 

 

しかし、その後はひたすら「登っては下る」の連続。結構、急な登りもあった。しかも、ムチャクチャ暑い!やっと到着した「北俣の水場」で明日の分まで水分補給。少し生き返る。そこから、犬ケ岳(1593m)まで、またひとしきりアップダウンを繰り返した。そして、約9時間半歩いてようやく栂海山荘(無人小屋)に到着した。

 

3日目。山荘から急坂を下り、またアップダウン地獄が始まった。下駒山(1241m)への登りはとてもきつかったが、更にその後も白鳥山(1286,9m)への長くきつい登りが続いた。栂海新道は、巻き道を作らず尾根に沿って登山道が作られているので、アップダウンの連続だ。3日目は花はほとんどなく、全身汗でびしょ濡れになりながら、景色を楽しむ余裕もなく、ただただゴールに到達することだけを考え、黙々と歩いた。

白鳥山を越えても、いくつかアップダウンがあり、遠くに海が見え始めるも、なかなか標高は下がっていかない。

最後は必死に下って、やっと栂海新道登山口へ到着。歩行時間約10時間。もうヘトヘト・・・

 

 

その後、約80段の階段を海まで降りて、海面タッチ!ばんざ~い!

 

 

憧れた栂海新道縦走。過酷すぎる・・・

「やりとげた感」はあるが、誰かから「お金を全額出すから、もう1度行こう」と言われても、私は2度と行かない!

 

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