1. ブログ マチベンの日々

ブログ マチベンの日々

2023年5月19日にタレント上岡龍太郎さんが81歳で亡くなったという報道があった。

人気全盛の58歳で芸能界を引退した後は、姿を観ることはなかったが、漫画トリオの一員の頃からテレビで観ており、引退前は探偵ナイトスクープの司会者だった。歯切れのいい物言いの人だったと記憶している。

 

そして上岡さんと言うと、思い出すのが父親の小林為太郞弁護士である。

小林為太郞弁護士は「為さん」と呼ばれていた。

京都の弁護士だったが、私は直接の面識はない。

しかし、為さんのことは、京都における市民・労働者・学生・農民・在日朝鮮人などに対する弾圧や人権抑圧に関わる事件を一手に引き受け、民主的法律家の中心的役割を果たした弁護士として語り継がれてきた。

私が所属する自由法曹団京都支部は、今年60周年を迎えるが、為さんが支部結成の呼びかけ人となったそうである。

為さんが1985年に亡くなった後、有志で「いごっそう弁護士為さん」という、為さんの人生や人柄そして活動などを紹介する本が出版された。当時、私も1冊いただいたが、今、手元には見当たらないのが残念だ。「いごっそう」というのは、気骨がある、がんこ者という土佐の言葉で、高知出身の為さんらしいタイトルである。

 

上岡さんも、きっと為さんのそんな血筋を引き継いでいたのではないかと思う。

 

 

 

 

2023年4月20日付け当ブログで紹介した、最高裁団藤重光元判事の直筆ノート。これが公開されていると知って、龍谷大学での特別展「団藤重光の世界」に行って来ました(公開は6月4日まで)。

 

 

 

団藤氏は刑事法の大家で、東大法学部教授などを経て、1974~83年に最高裁判事を務めました。

先のブログでも書きましたが、団藤氏が属していた最高裁第1小法廷には、「大阪空港公害訴訟」が係属していました。1・2審とも夜間飛行差し止めが認められ、最高裁の判断が注目されていました。

第1小法廷も高裁判決を支持することを決定していたにもかかわらず、国側の意を受けた最高裁の村上朝一元長官からの1本の電話により、大法廷に回付されてしまい、最高裁大法廷は、1981年12月差し止めを却下しました。

 

団藤氏は、最高裁判事時代に自分が主任として関わった事件について36冊のノートを残しており、その生のノートも公開されていました(残念ながら、写真撮影は禁止でした)。

その1冊の中に、この大阪空港公害訴訟の詳細も記され、「この種の介入は怪しからぬことだ」と憤りをあらわにされていました。

 

会場では、先日、NHKでこの団藤ノートのことを取り上げ放映された「司法は誰のためにあるのか」の映像も観ることができました。小法廷に係属して結審した事件が大法廷に回付されたことなど、それまでも、また、その後もないと語られていました。

また、団藤氏は、売春防止法制定にも関わられたようで、売春婦については、売春せざるを得ない様々な事情があり、罰すべきは業者だという意見を言われていたことも知りました。

 

団藤氏のことは、単なる「刑事法の大家」としてしか知りませんでしたが、人間味のある人だったことがわかりました。

また、いろいろな手段を使って司法に介入しようとする国のやり方は、大阪空港訴訟だけにとどまりません。裁判官の独立そして三権分立を侵すもので、怒りを禁じ得ません。

 

 

 

 

久須夜ヶ岳から蘇洞門へ(海を眺める山歩き)

今年のGW前半の天気はあまり良くなく、GW後半も少し前までは雨予報だった。だから、登山計画をなかなかたてることができなかった。

しかし、直前になって、5月3・4日が晴れ予報に変わったので、5月4日、山仲間のA弁護士に誘われ、4人で福井県の山歩きに出掛けた。

 

A弁護士は、最近「海を眺める山歩き」にはまっている。

「海を眺める山歩き」という本が出版されており、著者の草川氏はA弁護士の知人とのこと。

今回は、福井県小浜市の内外海(うちとみ)半島にある久須夜ヶ岳(くすやだけ。618.7m)から蘇洞門(そとも。0m)まで下るというコースだ。

 

蘇洞門は、内外海半島の先端にある景勝地で、約6キロに渡り奇岩が続く。

通常は、若狭フィッシャーマンズ・ワーフから観光船に乗り、海側から景観を楽しむ。その蘇洞門まで、山側から下ろうという山歩きだ。

 

5月4日は快晴。

久須夜ヶ岳山頂までは、エンゼルラインという自動車道を車で上がった。

駐車場からの景色は、360度の展望で絶景である。「すごい!」という言葉しか出ない。

この絶景を見られただけでも、ここまで来た甲斐があった。

 

 

 

駐車場近くに蘇洞門への入り口があった。駐車場が標高約600mだから、蘇洞門がある海抜0mまで600mの標高差を往復することになる。

エ~ッ5時間もかかるの!?

 

 

 

登山道はほぼほぼ下る一方。滑らないよう慎重に下るが、道幅は広く歩き易い。海は見えないが、木々の新緑が美しい。

「泊乗越」(とまりのっこし)という分岐を過ぎると、片斜面の細いトラバース道となり、傾斜が緩やかなので、なかなか下っていかない。

 

トラバース道が終わると、また、急坂を数カ所下る。

 

 

 

最後はコンクリートの階段となり、突然、眼の前が開け、海・断崖・岬などの景色が飛び込んできた。そして蘇洞門に到着した。

蘇洞門は陸側からでも感動的な素晴らしい景色だった。

 

 

 

入り江に観光船が入ってくる。船着き場はあるが、今は、観光客は下船はできないとのこと。

 

 

 

蘇洞門と日本海を眺めながら、久しぶりに焼き肉の昼食。

 

 

蘇洞門の入り江で約1時間半程のんびりする。

 

名残はつきないが、蘇洞門を後にして、下山してきた道をひたすら登り返す。先に下山したせいか、上りの苦手な私はいつもよりは快調に登ることができた。

 

下り約1時間半、上り約2時間、合計約3時間半だった。

 

初めての「海を眺める山歩き」を堪能した。

 

 

 

 

映画「不思議の国の数学者」を観て

高校時代、「数学は美しい」と語っていた数学の先生がいた。

この映画にも同じセリフが出てきた。

 

GW前に、新聞記事の映画評を読み、GW中に絶対観に行こうと思ったのが韓国映画「不思議の国の数学者」。

GW最終日の7日、大雨の中、映画館に足を運んだ。

 

私は、高校時代、理系教科が苦手だったが、前記の恩師の影響か、なぜか数学だけは好きだった。

ただ、その時は、恩師が言っていた「数学が美しい」という意味はわからなかった。いや、今もわかっていないかもしれない。

大学に進学し法学部生となった私は、大学1回生の教養部の時、どうしても数学の授業を受けたかったが、教養部には数学の授業がなく、わざわざ農学部のクラスの数学の授業を受講させてもらったこともあった。

それも遠い昔・・・今では、「数学」からは縁遠い生活を送っている。でも、「数学」という言葉を聞くと、なぜか心惹かれてしまう。

 

主人公ジウは、秀才が集まる名門私立高校の学生だが、数学が苦手で、貧乏で塾にも行けず、担任からは普通高校に転校せよと迫られている。

そんな彼が、高校の夜間警備員をしている脱北者ハクソンと出会い、数学を教えてもらうことになる。実は、ハクソンは、北朝鮮の著名な数学者であったが、北では数学が戦争に使われることを嫌い、学問の自由を求めて脱北し韓国にやってきた。しかし、韓国では、数学は大学入試の道具としか見られず、失望して、正体を隠したまま警備員として過ごしていたのだ。

 

ハクソンは、ジウに対し、数学は答えが正解がどうかではなく、そこに至る過程が大切だと語る。ジウはハクソンから数学を教わる中で、学ぶことの意味や人生で何が大切かなどを学び成長していく。

他方、ハクソンの過去も徐々に明らかになっていく・・・

 

数学と音楽との融合もあった。ハクソンとジウの同級生がピアノで連弾する円周率の曲は素晴らしかった。

そして、試験問題を盗んだという嫌疑をかけられたジウを助けるために会場に乗り込んだ、ハクソンの演説は最高だった。

 

世代を超えた友情だけでなく、南北問題そして韓国社会の教育にも言及した、とても感動的な作品だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヤマシャクヤクの密かな群生地へ

2023年4月22日(土)、気温はぐっと低下したが、快晴の日。

山仲間のA弁護士に、ヤマシャクヤクの密かな群生地に連れて行ってもらうことになった。

滋賀県の霊仙山はヤマシャクヤクの咲く山として有名だが、その近くに知る人ぞ知る群生地があるらしい。

今年は、全国至る所で、花が通常より早く満開となっているので、満開のヤマシャクヤクを期待して出掛けた。

彦根で、A弁護士の山仲間のFさんと合流する。

 

ヤマシャクヤクは、2010年5月に霊仙山に見に行った時以来。

野の花や山に咲く花は、比較的小さくて可憐な花が多いが、ヤマシャクヤクは、1輪1輪が独立しており、花も大きく、とても凜とした姿だ。

 

沢沿いの空地に車を停め、沢沿いの道路を進む。

途中、ピンクのテープが貼ってある場所があり、沢を渡り、そこから登山を開始する。

A弁護士からは、「今日は標高差300mくらいだから」と聞いていたので、登山用のストックを持参しなかった。

しかし、先頭を進むA弁護士が登っていく所には道らしき道はなく、なんとか踏み跡らしきものがあるだけ。

しかも、まもなく行く手の斜面は急勾配となり、重心を確認しながらゆっくりと歩を進め、両手を使ってよじ登るものの、すぐに登山用のストックを持参しなかったことを後悔した。そこで、落ちていた枝2本をストック代わりに使って登ることにした。

 

まもなくヤマシャクヤクとご対面。群生しているものの、予想に反し、蕾状態。

 

 

どの花も白い蕾が硬く閉じられている。

A弁護士は「もっと陽当たりの良い場所だったら、咲いてるかも」と言って、どんどん登って行く。

 

尾根近くまで登ると、所々に開花しているものが!

満開ではなかったが十分楽しむことができる。

 

 

 

 

昨年もここに登ったというA弁護士作成の標を撮影する。

 

 

 

 

 

比婆山の山頂近くの、霊仙山を真正面に望むことができる絶景の展望の場所で、昼食。

 

 

素敵なヤマシャクヤクとの出会いの1日だった。

 

 

 

世に雑草という草はない

4月からNHKの朝ドラ「らんまん」が始まった。

植物学者牧野富太郎がモデルのドラマである。

ストーリーとしては、まだそれほど面白いと思わないが、実在の人物なので、その人柄や人生はドラマ以上に興味がわく。

 

とりわけ、牧野富太郎の言葉として、新聞などで紹介されているのが、

「世に雑草という草はない」

私はこの言葉に強く感銘を受けた。

 

昭和初め頃、作家山本周五郎が記者だった当時、「雑草」と言った山本に対し、牧野は「どんな草だって、ちゃんと名前がついている」「きみが雑兵と呼ばれたら、いい気がするか」とたしなめたという。

 

この牧野の言葉については、これまで牧野の著作からは未確認だったようである。

しかし、「牧野記念庭園」(東京都練馬区)の学芸員が3年以上探した結果、昨春、牧野の著作を発見したとのこと(2023年4月18日付け毎日新聞朝刊)。

 

また、牧野は、生涯で1500種類以上の植物の発見や命名に関わったという。

 

山に登ると、たくさんの野の花や木に出会う。

だが、私は、何度その名前を聞いても、すぐに忘れてしまう。

また、私も、これまでは、庭の草などを「雑草」と呼んでひとくくりにしていた。

 

これからは、もう少し意識的に草花の名前を覚えるよう心がけようと思う。

それは、すべてについて、1つ1つの個性を大切にすることにつながるような気がする。

 

 

 

Soy camarera.

平日のランチは、事務所近くの店で食べたり、パンや弁当を買って来て事務所で食べたりする。

ランチに行く店の1つに、堺町丸太町下る所在の「Cafe奏」(カフェかなで)がある。

町家風の建物の店で、ランチも数種類から選べ、どれも美味しい。

ただ、裁判所の西側にあり、事務所からはやや遠いので、最近は訪れる回数が減っている。

 

昨日は久しぶりに、「奏」にランチを食べに行った。

店主は女性で、もうすっかり仲良し。

店主と話していると、「最近は観光客が多くて忙しい」「今日1時からスペイン人の団体の予約が入っている」と言われた。

初めてだし断られるかな?と思いつつ、「ネコの手」にでもなればと「手伝おうか?」と尋ねると、思いがけず「是非!」との返事。

仕事の予定が入っている午後1時45分まで急遽手伝うことになった。

 

エプロンを借りて厨房に入り、とりあえず客が食べた皿などを軽く洗って食洗機に入れる作業をしたり、食材に触れる自信はないので専ら片付けを手伝う。

 

午後1時前に16人ものスペイン人観光客が来店。にわかに忙しくなる。

「いらっしゃいませ」の代わりに、40年前に少し習ったことがあるスペイン語で「!Hola!」(オラ!)と挨拶。

camarera(=ウエイトレス)として、配膳したり、コップの水をつぎ足しに行ったり、など。

スペイン人から日本語で「ありがとう」と言われたら、スペイン語で「De  nada.」(=どういたしまして)、「Gracias」(=ありがとう)と返したり・・・でも、言葉が出て来ず、それだけしか話せなかった・・・(涙)

あとは簡単な英語で。

 

なんか楽しいひとときだった。

 

 

 

 

 

「行旅死亡人」(こうりょしぼうにん)という言葉をご存知だろうか?

 

私たち弁護士にとっても、なじみのない言葉だが、れっきとした法律用語である。

身元が判明せず、引き取り人不明の死者を表す。

 

私は弁護士になって間もない頃に、弁護士会の委員会活動の中で、何か「貧困問題」のようなテーマだっただろうか、調査をする中で、偶然、この用語に出会ったことがあった。

その時に「行旅死亡人」という言葉を初めて知り、それ以来、見たこともない言葉だったが、最近、新聞の書評で再び目にすることになった。

 

共同通信大阪社会部の1990年生まれの若い2人の記者が書いたノンフィクション「ある行旅死亡人の物語」。

まるでミステリー小説を読んでいるかのように、最初からどんどん引き込まれていった。

 

ネタ探しをしていた武田が「行旅死亡人データベース」にアクセスし、目に止まったのが、兵庫県尼崎市の安い賃貸アパートに居住していたある高齢女性が自室で孤独死したという記事。

3400万円を超える現金の所持金に加え、右手の指がすべて欠けていたことが武田の目を引いた。

40年も家賃月3万円のアパートに住んでいながら、住民票は抹消されている。

製缶工場で働いていた時に指詰めの事故に遭ったが、労災も自ら断り、できるだけ人との接触を避けるようにして生きてきたことがわかった。

 

なぜ?

 

武田と同僚の伊藤は、二人で、警察や探偵にも追えなかった彼女の人生の足跡を追っていく。

ネタバレになるので割愛するが、その調査の過程がとても興味をそそられる。

「死者について・・・知りたいと思う。”死”というゆるぎない事実の上に、かつてそこに確実に存在した生の輪郭を少しずつ拾い、結び、なぞること。それは、誰もが一度しかない人生の、そのかけがえのなさに触れることだ。」

そして「人間の足跡、生きた痕跡は、必ずどこかに残る。そう行旅死亡人でも、である」

 

小説ではないので、読者が(私が)知りたかった彼女の過去が全て明らかになったわけではないところに、はがゆさは残る。

しかし、たとえ行旅死亡人であっても、「かけがえのない人生」が確実にそこにあったことを感じられる読み物であった。

 

ガトーショコラの山を見に行って来ました

 

これは、何山かわかりますか?

 

群馬県と長野県の県境にそびえる浅間山(2584m)です。

日本百名山の1つですが、今でも噴煙をあげる活発な活火山なので、お釜のある釜山には入山禁止となっています。

 

雪がない時に見ると、饅頭のような形に見えるのですが、冬は、最近、ガトーショコラの山と呼ばれているそうです。

ガトーショコラってご存知ですか?

3月初め、このガトーショコラの山を見るために、外輪山の黒斑山(くろふやま、2404m)と蛇骨岳(だこつだけ、2366m)まで登って来ました。

3月になって雪も少し溶け、多くの登山者が歩くので、登山道は割と踏み固められており、軽アイゼンで歩くことができました。

「槍が鞘」という地点に到達すると、突然、巨大な浅間山が姿を現すので、感動的です。

 

天気にも恵まれ、素晴らしい景観でした。

 

山の溝の中に残雪が残り白いスジとなっているのは生クリームをたらしたよう。

また、溝以外で雪が残っている所は、まるでパウダーシュガーを振りかけたよう。

本当にガトーショコラのように見えますよね。

雪が多い時には、もっとガトーショコラに似てますよ!

映画「生きる」を観て来ました。

2023年3月10日、京都シネマで映画「生きる」の上映が始まりました。

3月3日付けの当ブログで紹介した映画です。

映画「生きる」~大川小学校津波裁判を闘った人たち~ | 京都法律事務所 (kyotolaw.jp)

 

3月10日は弁護団の1人である吉岡和弘弁護士が舞台挨拶に来られることを知り、同期の友人弁護士らと一緒に観に行きました。

 

 

文句なく素晴らしい映画でした。

 

津波や地震そのもののシーンはありません。

 

子どもたちの遺族である親たちは、裁判などしたくはありませんでした。

しかし、石巻市や教育委員会、校長らの答弁、あるいは第三者事故調査委員会の報告内容は、遺族が最も知りたかった「なぜ、子どもらは裏山に逃げなかったのか」「なぜ、子どもらは約50分も校庭で待たされたのか」そして「なぜ、子どもは津波で命を失わなければならなかったのか」という疑問にとうてい答えるものではありませんでした。

唯一の生存者の当時の教務主任も途中から口を閉ざしました。

地震発生後まもなくから始まった保護者説明会の様子が遺族の方によって撮影されており、リアルです。東北弁なので言葉が正確にはわかりにくいのですが、遺族の怒りは十分伝わってきました(「字幕つき」も上映されるそうです)。

 

結果的には最高裁で勝訴が確定しましたが、裁判も想像できないほどの覚悟と苦悩がありました。弁護士2人は、弁護士人生をかけて、遺族の思いを背負う覚悟で裁判に取り組みました。

金銭目的でないにもかかわらず、裁判をするには、子どもの命の値段を金額にして請求しなければならないつらさや葛藤が手に取るようにわかりました。

津波によって「証拠」はほんとど失われ、地元のことを一番よく知っている遺族も「子どもの代理人」となって証拠集めに奔走しました。それが遺族自身の「生きる」思いにつながっていったと言います。

 

映画の中では、裁判の審理や判決内容については、ほとんど触れられていませんが、少しだけ紹介します。

津波発生1年前の「平時」における「組織的過失」を認定した控訴審判決を言い渡した裁判官は「学校が子どもの命の最後の場所であってはならない」と述べたそうです。

また、映画にも登場されている東京大学大学院の米村教授は、「この判決がなかったならば、1万7000人余りの被害を出した東日本大震災は、日本社会に何も教訓を残さなかったことになってしまっただろう。この判決で日本社会が変われる重要な第一歩が築かれたと思います。それを二歩、三歩にするかは、これからの我々にかかっている」と語っておられました。

 

同じ弁護士として、二人の友人弁護士の活動には頭がさがりますし、誇りに思います。

 

是非、1人でも多くの皆さんに、この映画を観ていただきたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、京都弁護士会主催で映画の試写会があった。

映画終了後、トークイベントがあり、その中で、司会者から映画の感想を聞かれた登壇者の1人が、会場に若者も多かったせいだったのだろうか、「エモい」という言葉を使って評された。

 

私は、「エモい」という言葉の意味を知らなかったので、その場は「何?それ」と思いながら聞き流した。

翌日パソコンで「エモい」という言葉の意味を調べてみた。

どうやら「エモい」という言葉は若い世代を中心に浸透している俗語で、単に嬉しい・悲しい・という気持ちだけではなく、感傷的・哀愁的・郷愁的などしみじみする状態を含み、形容しがたい様々な心情を表現する便利な言葉として使用されているらしい。

 

そんなことがあって、現在放映中のNHK朝ドラ「舞い上がれ」(第105話)の1場面を思い出した。

短歌の歌人である貴司君の古本屋「デラシネ」を久しぶりに訪ねてきた、中学生になった陽菜ちゃんがこう言う。

「言葉ってさ、こんなにいっぱい要らんくない?中学入って分かってんけど、みんなに合わせて『ヤバイと可愛いとキモい』だけ言うとったら、やっていけんねん」

 

それに対する貴司君の言葉が心に響いた。

「言葉がいっぱいあんのはな、自分の気持ちにぴったり来る言葉を見つけるためやで。

 

日本語という言葉には、それぞれ似ているようで、様々なニュアンスを帯びたものがたくさん溢れている。

その言葉の中から「自分の気持ちにぴったり来る言葉」を見つけ出して使って初めて、語り手の思いや感情、思考などが伝わると思う。

 

簡単ではないだろうが、そこに日本語表現の素晴らしさがあるような気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2011年3月11日、あの東日本大震災が発生した日、宮城県石巻市大川小学校の児童74名は、すぐ南側に誰もが走れば1分足らずで上れる裏山があったにもかかわらず、校庭で約51分待たされた挙げ句、70名の命が失われ、4名の児童が行方不明となった。

 

映画「生きる」は、その事件の裁判を闘った遺族たちのドキュメンタリー映画である。

 

私の司法研修所時代の同期(34期)の弁護士2名(吉岡和弘弁護士・齋藤雅弘弁護士)がこの大川小学校津波裁判を担当していたという関係で、この映画のことを知った。

 

大川小学校津波裁判では、仙台地裁は、2016年10月26日、津波が学校に到達する7分前に教師らに津波到来の予見可能性があったと認め、遺族勝訴の判決を言い渡した。その後、仙台高裁は、2019年4月26日、石巻市、市教委、校長など指揮命令に位置する者らを「組織」でくくり、地震や津波が発生する遅くとも1年前の時点で児童らの安全を確保するための職責を果たすべき義務を怠った責任を認める判決を言い渡し、2019年10月10日、最高裁も高裁判決を維持し、判決は原告遺族勝訴で確定した。

 

しかし、最高裁で勝訴しても、原告遺族たちは落ち込んだという。

1つは、遺族らが求めた「なぜ子どもらが亡くならなければならなかったのか?」が裁判で明らかにならなかったこと、そして2つめに、遺族の活動に対し、様々な場所や機会、媒体によって、心ない人々から罵声や誹謗中傷が浴びせられたからだ。

 

原告遺族らは、金銭賠償をしてほしいために国賠訴訟を起こしたわけではなく、裁判以外に方法がない状況に追い込まれ、提訴したのだ。

 

2023年2月26日、吉岡弁護士の紹介で、この映画を製作した寺田和弘監督と会う機会を得た。

監督は、裁判というものを知らない遺族らが、今日まで、どのように乗り越えて来たのか=親の闘いを描くことで子どもの姿を描くことにつながること、そして、今の日本の姿を描き、あの日何があったのかがわからない限り教訓にはならないと熱く語られた。

 

京都では、3月10日から30日まで、京都シネマで上映されます。

是非、多くの皆さんに観ていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

2023年2月6日にトルコ南部を震源とするトルコ・シリア地震発生から、13日で1週間が過ぎた。死者は、同日、トルコで3万1643人、シリアで4574人となり、計3万6000人を超えた(2023年2月14日付け毎日新聞朝刊)。

東日本大震災の死者・行方不明者が1万8423人なので、発生1週間でその2倍に達している。

 

トルコと日本のつながりは深い。

東日本大震災の際、トルコ政府はいち早く救援チームを派遣し、各国で最長となる3週間活動を続けてくれた。

また、昨年11月、私は友人と訪れた和歌山県串本町がトルコと深い関係があることを知った。

明治23年9月16日、日本親善使節団を乗せたトルコのエルトゥールル号が串本町大島沖で台風に遭い、587名が死亡、生存者はわずか69名という大海難事故が起こった。この遭難に際し、当時の大島島民は、不眠不休で生存者の救助、介護、遺体捜索などにあたった。この話は、今でも、トルコの子どもたちは、歴史の教科書で学んで知っているという。

そして、この話には更に続きがある。

イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクは「今から48時間後にイランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表した。世界各国は自国民を救出するための飛行機を出したが、日本は、航行の安全が確保できないという理由から飛行機を出さなかった。そんな時、トルコは、救援機2機を出し、日本人215名全員がイランを脱出することができた。タイムリミットの1時間前とのこと。

 

トルコ西部を訪れたことがあるが、南部はない。でも、これまで私が観光で訪れた外国の中で、トルコは一番好きな国だ。

 

今、1人ひとり、できることでの救援が求められている。

 

年金者組合スキーツアー(白馬岩岳)

登山が趣味ですが、冬は、冬山には登らず、スキーが専らの趣味です。

夫と二人であちこちのスキー場に行っていましたが、

が亡くなってからは、シニアのスキーツアーに参加しています。

 

昨年知り合った名古屋の81歳の友人Sさん(女性)に誘われて、

先日、全日本年金者組合のスキーツアーに参加し、白馬岩岳スキー場で滑ってきました。

参加者の平均年齢は70歳を超えています。私など、若い方・・・

皆さんとても元気で、ハイスピードで滑っておられました。

81歳のSさんは2級検定にも合格されており、華麗な滑りでした。

 

 

 

 

こんなゼッケンを付けて滑りました。

親しげに声をかけてこられたり、「年金者組合って何?」と尋ねられたり・・・

 

 

年金者組合は、もちろん戦争反対です。

 

 

 

白馬岩岳スキー場のテラスからは、白馬三山を正面に望むことができます。

3日目にようやく白馬連峰が顔を出しました(三山全部は見えなかったけど)。

 

 

 

シニアの皆さんから、いっぱい「元気」をいただきました。

 

 

 

 

大雪が降った朝

昨日から今日にかけては、日本全国に10年ぶりの寒波が到来しているようです。

京都市内も昨日夕方から風が強くなり、雪が降り始めました。

 

今朝(1月25日)起きた時には、雪は止んでいました。

朝刊を読むと、京都市内は13㎝の積雪があったそうです。

朝の空気がひんやりして、こんな空気が好きです。

 

朝の事務所付近はこんな様子です。

 

 

 

事務所から見た外の景色です。ビルの壁からツララが下がっています。

 

立命館の「わだつみ像」

2023年1月23日付け京都新聞朝刊1面と23面に、大学紛争で破壊された初代の「わだつみ像」を、保管している学校法人立命館が常設展示の方向で公開をきめたという記事が掲載されていた。

 

「わだつみ像」は、1953年12月8日に立命館大学広小路キャンパスに建立された後、1969年5月20日大学紛争の最中に全共闘の一部学生によって破壊された。

 

「わだつみ像」とは何か?

1949年、全国の大学・専門学校出身の戦没学生の遺稿「きけわだつみのこえ」が刊行された。当時は30万部のベストセラーになったという。その印税を資金に、1950年9月に製作されたのが「わだつみ像」である。当初は東京大学に建立するはずであったが、紆余曲折を経て、立命館大学広小路キャンパスに建立されることになり、1953年12月8日除幕式が挙行され、学生の代表によって「不戦の誓い」が宣言された。

しかし、その像は、1969年5月に暴力学生によって破壊された。

 

1度は破壊された「わだつみ像」は、1976年5月20日再建立された。

当時、私は、京都大学の学生で、既に学生運動は下火になっていたが、学内にはまだヘルメットをかぶった学生がウロウロしている状態だった。

それまで「わだつみ像」の歴史など全く知らなかった私だったが、何かのきっかけでこの像と再建立のことを知り、いたく感銘を受けて、一人で、立命館衣笠キャンパスまで出掛けて行ったという記憶だけが残っている。

京都新聞を読んで、約50年も前の、そんなことを思い出した。

 

京都新聞の記事によると、初代の像は、頭部に穴が開き、腹部にはペンキで「死」の文字が落書きされ、また右肘や左大腿部の亀裂、左腕部の破損など当時の状態のままで倉庫で保管されてきたとのこと。

 

「新しい戦前」などと言われる現在、この初代のわだつみ像が公開される意義は、一層大きいと思う。

 

 

 

 

タモリ「来年は新しい戦前になる」

タレントのタモリが、2022年12月28日、昨年最後の「徹子の部屋」に出演し、黒柳徹子から「来年はどんな年になるんでしょうか?」と尋ねられ、「新しい戦前になるんじゃないですかね」と発言したそうだ。

 

まさに言い当てている。

 

昨年来、岸田政権は、軍事費の大幅増額(5年で43兆円)や「敵基地攻撃能力」を保有すると宣言、「戦争への国づくり」と着々と進めている。大学などの研究機関にも軍事・防衛関係の費用を拠出して大学を取り込もうとしている。マスコミ自身は早くから政権に取り込まれ、その追及姿勢は極めて弱い。

 

そもそも、「敵基地攻撃能力」と保有したとしても、それで「攻撃されない」保証など全くない。しかもアメリカの戦争に日本が巻き込まれてしまうのである。

攻撃しようとする国には、高い攻撃能力を持った国はいくらでもある。戦争になれば、日本が戦火にまみれることは明らか。

軍備より、もっともっと外交努力を尽くすべきである。

 

「新しい戦前」にするかしないかは、私たち国民一人が決めること。

岸田政権の暴挙を許さず、今年こそ平和を最大限追及する年にしていきたい。

 

新年初登山は金華山

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

 

年末年始は郷里の岐阜に帰省しました。

天候も良さそうでしたので、今回は、帰省中に久しぶりに金華山(329m)に登ってみようと決めて、京都を出ました。

 

2023年1月1日、雑煮を食べた後、いとこと二人で金華山に登ることにしました。

私の記憶では、金華山に登るのは小学校の時以来です。

10の登山道があるようですが、いとこが「七曲り登山道」からしか登ったことがないと言うので、今回はその「七曲り登山道」から登ることにしました。

 

 

「七曲り登山道」は家族向けのコースで、京都の愛宕山で言えば、表参道みたいな整備された道でした。

最後はずっと長い階段が続き、あまり面白いコースではありません。

金華山は大文字山(465m)より低いので楽勝かと思いきや、最後の階段上りで疲れました。

ちなみに、金華山が低山だからと言ってバカにしてはいけません。どのコースかはわかりませんが、昨年8月大学生2人が遭難しています。

 

やっと岐阜城に到着。ご存知のとおり、岐阜城は、斎藤道三や織田信長の居城でした。

 

 

 

 

金華山山頂の標。

 

 

岐阜市街の展望も素晴らしい!

 

下山は、「百曲登山道」を下ることにしました。

 

「百曲登山道」の方が階段もほとんどなく、山道らしくて、面白かったです。

 

岐阜公園から望む岐阜城。

 

本当に久しぶりに金華山に登って、やはり金華山は短時間で登れるし、展望もあり、岐阜市内を象徴する山やなあと思いました。

これからは、年末年始に帰省した時には、必ず登ろうと思いました。

 

 

 

 

今年1年お世話になりました

とうとう大晦日になってしまいました。

今年1年お世話になり、有り難うございました。

 

12月29日に来客があったので、掃除(小掃除ですが)はその日の朝に済ませました。

30日は午前中快晴で、今年の「山登り納め」として、大文字山に登りました。山頂で、買って来たパンを食べましたが、風が冷たく、早々に下山しました。

 

下山後、久々に、哲学の道にほど近い法然院に立ち寄りました。

細胞生物学者で歌人の永田和宏さんが、2022年9月、妻で歌人の河野裕子さんの13回忌を機に、法然院に墓を建てお骨の一部を収めたという新聞記事を読んだので、行ってみようと思いました。法然院には、想像していたよりたくさんのお墓があったので、見つけられないかもと思いましたが、ありました。

 

 

帰宅して、切り抜いていた新聞記事を読み返すと、永田さんは、法然院の参道に二人が詠んだ自筆の相聞歌が刻まれた歌碑も建てられたようで、これは来年、大文字山に登った時にまた見に来ることにしようと思いました。

 

その後、歩いて岡崎神社に行きました。割と近くの神社なのに、何十年も京都に住んでいてこれまで1度も来たことがありませんでした。ここは兎の神社だとテレビで放映されていたので知りました。既にたくさんの参拝客であふれていました。

 

 

 

 

 

来年もよろしくお願い申し上げます。

 

 

2022年9月2日付け当ブログで、作家宇野碧さんの小説「レペゼン母」を紹介したが、その宇野さんの母親柴田野苺さんに会いに、本州最南端の町、和歌山県串本に行ってきた。

串本は数十年ぶりの来訪である。

 

野苺さんは、私の中学時代の友人Mちゃんの、高校・大学(音楽大学)時代を通じての友達。

だから、年齢も同じで、生まれも同じ岐阜出身である。

21年前に串本に移住し、ここで、自給自足を目指す活動、福島を支援する活動など多種多様な取り組みをされているとのこと。Mちゃんから野苺さんのことを聞いて、どんな女性なのか1度会ってみたいと思っていた。

 

11月初め、Mちゃんから、野苺さんが12月11日にミニライブをするという連絡をもらったので、一緒に串本に行くことにした。野苺さんに会えること、Mちゃんと初めて二人で旅行することにワクワク。

 

Mちゃんとは新大阪駅で待ち合わせ、午前9時半発の特急くろしおに乗り、午後1時前に串本駅に到着。とにかく遠い!東京より遠い。

野苺さんの下の娘さんが経営する、「なんたん屋」というカフェが会場。上の娘さんの作家宇野さんも手伝いに来られていた。

 

 

 

 

昼食がまだだったので、早速、ランチを注文する。

 

 

野苺さんのミニライブは、福島支援として、毎年福島の子どもたちを串本に招く活動のチャリティーライブ。

野苺さんは、高校・大学では声楽を専攻し、ミュージカル女優になりたかったとのこと。

電子ピアノを弾きながら、パフォーマンスも交えながら歌う。自身で作詞作曲された歌やミュージカルメドレーなど。

慣れたものである。声量もあり、同じ年とは思えない声。さすが!

 

 

第二部は、同じ串本移住者のキミさんも加わる。

 

 

最後は、友人Mちゃんのオカリナ演奏も。素敵だった。

 

夜は、野苺さんも一緒に、串本の魚料理の店で魚づくし料理を堪能した。

岐阜のような保守的な町で、なぜ野苺さんのように自由な人間が育ったのか、その片鱗が少しわかったような気がした。

 

 

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