1. 岡根弁護士のぼやき論壇

岡根弁護士のぼやき論壇

最高裁の金銭感覚?

とある県の選挙管理委員会等の委員、ほとんど働きもせず、月平均2日に満たない(1.89日)会議等の出席のみで、なんと、月額報酬を20万2000円ももらっていた。

1日当たり10万7000円。これは、国の非常勤職員の報酬の上限をとっても3倍を超える。
本来の規定(条例)では、日額報酬制をとることにしており、職務の性質や職責、負担などを考慮して、月額報酬制等を採用することも可能であるとする。 そして、それが著しく裁量の範囲を逸脱しないのであれば、問題は生じないと考えてもいい。 たしかに、会議に出席するだけではなく、それに向けた準備、資料の収集、検討など、会議以外にも費やす時間、労力を考慮すれば、単に日額でのみ判断されるのは堪ったものではない、という場合もあるであろう。
しかし、今回のケース、会議以外での仕事って何? 何やったの? といいたくなるような内容で、日額制をとっても、その日額に準備などの負担も織り込み済み、と考えられる程度のものしかないように見受けられる。
しかし、これでも、最高裁判所は、「不合理とは認められ」ないと判断した(2011年12月15日第1小法廷)。
ところで、受験生の頃、家計を支えるために、週5日(時々土曜日も入る)8時間フルに働いて、15万円位にしかならなかった。  それが、2日で20万円。
しかも、その1日も場合によっては1~2時間の会議のみ。
たしかにその委員は、なんかあった時の責任は重いでしょう。でも、それはあくまでも抽象的な責任に止まっている。おそらく、具体的に県を代表して矢面に立ったなんてことはないはず。
いったいいくらくらいなら、最高裁判所は、「不合理」と考えるんだろう。
あまりに、私のような庶民の感覚とずれていて、唖然とする。
まぁ、今回のケース、原審で原告側が一部勝訴していたため、県が報酬制度を見直し、日当制にしたので、かなりの節約になったはずである。委員会での会議などのペースがこれまでと変わらないのだとすると、委員1人だけでも年間約180万円の税金投入を阻止したことになる。
市民ウォッチャー・京都などで行政監視の活動をしている我々からすれば、最高裁では敗訴したが、目的は十分に達したと評価できる(今回のケースでは弁護団員ではありませんが)。
それにしても、何でもかんでも行政の「裁量の範囲」と言い続ける裁判所の発想は何とかならないのだろうか。

自転車に赤切符

「赤切符」を切られるということは、刑事罰を受ける可能性のある処分を受けたということ。

これまで、自転車を運転していて、赤切符を切られることなんてほとんど考えられなかった。しかし、最近の自転車と歩行者の事故の多発、さらには、死亡事故までも起こっている事故の重大化を背景に、自転車の車両としての自覚を促す取り締まりの強化が行われている。
先日も京都府警が行っていたようで、1日で数人が赤切符を切られていた。特に問題とされているのが、ピストタイプの自転車。バックもできるので、止まるときにはペダルを逆向きに回すような方向で力を入れて自力で止まらないといけない。
日本では、ブレーキを装着しない自転車では公道を走れない。道交法違反となる。ところが、自転車乗りからすると、ピストタイプでブレーキを付けるのは格好悪いのか、結構外している人がいる。 これが危ない。
人間の脚力では、そこそこスピードが出ているときに、急ブレーキをかけて止まるのはまず無理。
ピストタイプの自転車は、たいがい結構スピードが出る。 自転車でも30~40キロくらいなら普通の人でも出せるので、突然歩行者が現れても、まず止まれない。 もともと、自転車には歩道を走る場合「徐行義務」がある。しかし、例えば御池通の歩道で「徐行」をしている自転車はむしろ希だろう。
結果、かなりのスピードが出た状態で衝突事故。 当たり所が悪ければ、その衝撃だけで死亡に至ることもあり得る。
自転車は、歩道に出ればとりわけ、「走る凶器」であることを自覚しないといけない。
これだけ事故(しかも結果が重大)が増えると、「赤切符」もやむを得ない。
スピードを出せば普通のタイプの自転車も、ものすごく危ない乗り物になる。気をつけて少しでも事故を減らしたいものだ。

再審開始決定!

残念ながら、日野町事件に付いてではありませんが、福井女子中学生殺人事件について、名古屋高裁金沢支部が再審開始の決定をした。

もともと、原第1審は「無罪」だったのを、高裁がむちゃくちゃな判決で「逆転有罪」にしてしまった(最高裁もそれを追従)ものだから、もっと早くに再審開始がなされるべき事件だった。
異議申立などがなされると、再審の公判がすぐに始まるわけではなく、またまたひっくり返る可能性はあるが、訴追側による恥の上塗りはやめてもらいたい。
客観的な証拠もなく、アリバイもあったのに、まともに取り合わず、暴力団員の作り話に乗ってしまったというのが、元の高裁判決だ。いかに(高裁の)裁判官が、「被告人を見たら有罪と思え」と考えているのかがよく現れている。
このまま、再審が開始され、当然の結果である「無罪」判決が出されることを心より願う。
えん罪は、新たな被害者を(国家的な犯罪として)作り出すに止まらず、被害者親族等には、真犯人を見逃してしまうという新たな苦痛を与えることになる。
その点に関連して、再審開始決定の報道と同じ紙面で、被害者親族のコメントが掲げられていたが、報道機関の報道姿勢を疑う。何のためにこんなコメントをとってくるのか、さっぱり理由がわからない。ずさんな捜査機関、出鱈目な訴追機関、無茶苦茶な判断機関により、真犯人を捕らえてほしいという被害者のせめてもの願いを国が裏切ったのだ。それに止まらず、新たな被害者を作り出してしまったという本来感じる必要が全くない責任まで感じさせてしまったかもしれない。
それに拍車をかけるのではないか、という報道は、慎むべきではなかろうか。

「アイドリング禁止」、条例で義務化

京都府には、アイドリング禁止の条例がさだめられている。地球温暖化対策条例に規定があり、自動車駐停車時にアイドリングの禁止を義務づけている。違反者には罰則もある。罰則といっても、罰金などではなく、「氏名公表」くらいだが、施行5年経っても罰則の適用はまだないようだ(京都新聞夕刊による)。

もっとも、信号待ちや渋滞の場合は、除かれているので、普通に乗る分には特に問題はない。
たしかに、場所によっては、休憩場所のようになっているところもあり、とりわけ夏場や冬にはエアコンを効かせて昼寝をしている(エンジンが掛かっている)という姿をよく見る。御所の東側の通(寺町通り)もその一つ。
アイドリング禁止よりも、狭い通に駐められると、自転車で通るときなど危ないことから、駐車禁止で取り締まってほしいものだ、とはよく思う。こっちだと、切符が切られることになって、高額な駐車料金?を支払わないといけなくなる。結構滞納が多いとは聞くが・・・

執行猶予?

とある新聞に次のような記事が載っていた。

「法務省は3日、懲役や禁錮刑の一部を執行した後に残りを猶予する「一部執行猶予制度」の創設を盛り込んだ刑法改正案など関連法案を次期臨時国会に提出する方針を固めた。
 一部執行猶予制度は、実刑と執行猶予の間の中間的な処遇として導入する。刑務所に初めて入る人のほか、3年以下の懲役や禁錮の判決を受ける薬物使用者に適用することを想定している。同省は、出所後も保護観察を続けて社会の中で受刑者の更生を図ることで、再犯防止を期待している。」

結局、「中間」といっても、宣告される側は、明らかに「実刑」なわけで、刑期の一部についてのみ執行猶予扱いになるに過ぎない。

心配するのは、これまでなら執行猶予が付いていた人について、刑期の一部については「実刑」として刑務所でのお勤めをしなければならないというケースが増えないだろうか、ということだ。

「即決裁判」(あまり利用はないようだが)ができたおかげで、これまでなら起訴猶予になっていた人が、執行猶予付きではあっても有罪として「前科」がつくようになってしまっているのではないか、という感じの、判決版という気がしてならない。

あまり好ましい制度とは思われない。

決闘罪

ある事件の弁護人になった。

犯罪名を見て内容を調べようと、普段使っている刑事用の簡易六法を見たが、載っていない。

それもそのはず、刑法施行前にできた法律がまだ生きている。刑法ができたのが、明治40年4月24日とかなり古い。時代も変わっていることから、その後何回も改正され、私が受験生の頃勉強していた刑法の内容とも大部と異なってきている。

明治の終わりにできた刑法。それよりさらに古い 「決闘罪に関する件」

明治22年にできたもので、当時「果たし合いは罪ならず」などといわれていたところに、一石を投じたもののようだ。

これまでほとんど使われることがなかったといわれているが、最近、暴走族や暴力団の抗争に関して刑法よりも緩やかな要件で犯罪としてしょっ引けると考えたからか、ここのところ増えてきているらしい。

ただ、刑法ができる前の法律だから、そのまま条文通りには適用できない。

これまた明治にできた刑法施行法(明治41年3月28日)によって、内容が変わっている。

科される刑罰は、「重禁固」とあるが、これは、懲役と読み替える。罰金を付加するとあるが、付加しないことにする。など。

それは兎も角、処罰しやすいからと注目されるのは仕方ないが、弁護人の立場からすれば、「決闘」の定義さえはっきりしてないのに、決闘に「挑みたる者」「応じたる者」「行いたる者」「立会を為した者」などどうやって特定するのか疑問がわいてくる。

下手をすると、喧嘩の仲裁に入っただけで、『逮捕』なんてことにもなりかねない。

罪刑法定主義という刑事事件の大原則を極めて軽視している日本の司法の下で、こんな曖昧な犯罪を実質復活させるのは、本当は危険きわまりないことなんだけどなぁ。

 

公訴時効廃止

『公訴時効』、これは一定の時間の経過によって、その後になってようやく犯人が分かっても、処罰できなくなる制度のことを言います。

被害を受けた側からすれば、これでは被害者がうかばれない、逃げ得じゃないか、という事にもなりそうです。

しかし、逆に、10年も20年もたってから、突然「お前が犯人だ! 違うのならアリバイを証明しろ!」なんて言われたらどうしますか。全く身に覚えがない、しかし、捜査官は、「証拠がある」という。

昨日のお昼ご飯何を食べたかだって怪しいのに、20年前の1991年9月3日何をしていたのか、なんて、覚えている人はまずいないでしょう。何もやってなくても、怪しげな証拠を突きつけられれば、あっという間に冤罪のできあがりとなってしまいます。

そんな事(証拠の散逸)も根拠の一つとして、犯罪によって、一定の期間が経過すれば、捜査もできなくなる訳です(処罰できないのに逮捕・勾留などされたら大変な事ですよね)。

そんな公訴時効の制度が、殺人など一定の犯罪については、(強い反対意見があったにもかかわらず)廃止されてしまいました(期間が延長された犯罪もあります)。刑事弁護をする人がよく使っている刑事・少年事件用の六法(2010年版)にはまだ反映されていません。条文を数回読んだだけでは、何がどうなっているのか、さっぱり分かりません。

それはともかく、「改正」により、えん罪事件が増えることが無いように、例えば、いったん眠ってしまっているような事件の捜査を再開できるためには、普通なら間違いがないというような新たな証拠の存在を要件とすべきでしょう。まだその点についての立法上の対処が出来ていません。今後の課題と言えます。

 

ショージとタカオ

「ショージとタカオ」  ドキュメンタリー映画の題名である。

アイウエオ順に、桜井昌司、杉山卓男。

44年前、強盗殺人犯として29年間服役し、その後も無期懲役囚として仮釈と言うことで社会に戻ってきた2人の社会復帰後の人生をたどったものだ。

警察や検察、さらには裁判所がきちんとしていれば、決して出会うことなどなかった人だ。そう、無実の罪で29年間、刑務所等に収容され、ようやく無実と認定され、44年かけて、ようやく普通の人の立場を取り戻した普通の人の変わった人生劇場だ。

えん罪。やってもいないのに犯人に仕立て上げられ、犯罪者としての人生を歩まされる。運良く、疑いが晴れればいいが、大半はそのままやってもいないのに犯人にさせられてしまう。

そんな疑いを払拭するのに44年の歳月が必要となった。当時20才の青年が、もう60を越えている。

刑事補償として数千万円の金が入る(予定)が、29年間も自由を奪われたいと誰が思うのか。

第2、第3の被害者を生み出す、冤罪。

この予防のためにも、最低でも、警察段階からの捜査の可視化が不可欠だ。

ぜひ一度機会があれば観てもらいたい。                                                                                                                                                                                                                                                                    

当番待機

1~2ヶ月に1回くらいの割合で、当番弁護士というのが回ってくる。

逮捕や勾留をされた場合、最初の1回だけ待機している弁護士が接見に行って、必要であれば、その後の捜査弁護につなげていくというものだ。この費用の出所は、全国の弁護士の会費の中から賄われている。いわばタコが自分の足を食っているという感じか。

まぁそれはともかく、自白強要により冤罪事件が作られてきた歴史から、少しでも冤罪を減らすために先達達が身銭を切って初めた制度が今も生きている。

ようやく「勾留」された以降については、捜査段階でも国が弁護人を付ける被疑者国選という制度が導入されたが、これではカバーできない犯罪が残る。

昨日の日曜日、午後の待機当番だった。

今日は出動要請無しで終わるかな?と思い始めた午後3時45分(待機は午後4時まで)、電話が掛かってきた。FAXを確認すると、やたらと長い罪名。以前見たことはあるが、内容はうろ覚えなので、被疑者国選の対象となる事件なのかどうかを確認するのにも時間がかる(法定刑によって対象となるかどうかが決まっていて、どの類型の犯罪かによって対象となるかどうかが別れる場合がある)。

対象外。

祇園祭もあり、他府県ナンバーの車が多く、だだ混み状態。清水寺の近くの警察署だったので、自転車で行く。それでも、走りにくい。祇園祭の後祭りで、人もいっぱい。午後4時でも、優に30度は超えている。日差しも強い。日焼け止めを塗っての出動。

大汗かいて、ポロシャツ着て、サングラスかけていったからか、警察の受付では、「お前は本当に弁護士か?」と怪訝な表情で迎えられたのでした。

なお、警察署も節電か、蛍光灯もついてない暗い廊下が待っていた。

 

お昼寝の効用

某準国営?番組の受け売りです。「昼寝」は午後の仕事を効率的に行う上でも有用なんだそうです。

とある進学校で、お昼寝を取り入れてから、有名難関大学への進学率が大幅アップ、それのみならず、午後のクラブ活動での怪我が半減。数字で示されると、ものすごく弱い。そうなんだ!(「合点」ではない)と納得してしまう。
お昼寝を研究している人がいるようで、昼寝に充てる時間は、15分程度がベスト。それより長くすると、かえってよくないみたい。寝方は、「ベットに横になる」のはかえって昼寝としては適してなく、また定番の「机にうつぶせになって」というのは、若い間はいいんだそうですが、それなりに齢を重ねてくると首の負担が大きくなるので勧められないそうです。上向きがよくて、ソファーなどに座って、頭をどこかに支えるくらいが丁度いいそうです。アイマスクは有用。
そして、昼寝に入る前に、コーヒーやお茶などカフェインを飲んでおくと、15分程度の寝覚めがいいそうです。
早速試してみることにしよう。何となく、昼ウトウトしていると、罪悪感を感じてしまう雰囲気があるようですが、今後は意識改革を図らねば。
更に、15分程度の昼寝は、夜の睡眠も効率よくさせてくれる。夜の睡眠は、7時間30分程度(7~9時間)が必要で、ヨーロッパの実験によると、それより短いのも長いのも健康によくないようです。
体重、体脂肪率、おなか周り等、睡眠不足がもっとも悪く、寝過ぎが次によくない。適度な睡眠と比べると、グラフにするとかなり大きな差になって現れている。
うーん、今日も4時間半の睡眠しかとってない。毎日(できるだけ)、通勤をウォーキングか軽いジョギングをしているのにイマイチおなか周りがすっきりしないのは、この辺に原因があるのかもしれない。
これも、今日から努力するようにしたい。
みなさんもいかがですか。  睡眠の効用にはほんと驚いてしまったのでした。

布川事件 無罪確定

ついに無罪が確定した。

こんな当たり前のことを現実のものとするのになんと40年以上を費やした。
布川事件を指して「失われた29年」と言われるが、桜井さんや杉山さんが仮釈放で社会に戻ってきても無罪放免となったわけではなかった。仮釈放で社会に戻ってきたとしても、常に「無期懲役」はついて回る。無罪が確定するまでの間は、例えば、電車内で痴漢に間違われた、自転車で人をはねた、等という事態が生じてしまえば、仮釈放が取り消される怖れに常に悩まされてこられたはずだ。
この事件、当初の捜査段階で、犯行間近の時間に犯人らしき人物を見た人の証言があり、「桜井さんや杉山さんではない」といわれていた。その証拠は、ずっと検察官が隠し、明らかにしてこなかった。無い、といってきていた。
40年以上経った再審の法廷で、その目撃者は「現場で見たのは桜井さんや杉山さんではない」と証言した。それに対し、「40年以上経った証言で変遷が著しい」(だから証人の話は信用できない)、これを証拠を何十年も隠してきた検察官が言っていいのか。
 検察が起訴を決断した当時、無罪を示す証拠はたくさんあったはずだ。そんな証拠の前に真摯でありさいすれば、真犯人を見つけ出すこともできた可能性がある。2人の人生を狂わせることもなかった。
無罪は確定したが、再審での判決の中で、違法だらけの捜査に全く言及していない点には大きな不満が残る。
何はともかく、無罪が確定したこと自体は非常にうれしい。その教訓として、いまの刑事事件について、捜査の全面可視化(警察での捜査を含めて)は不可欠だ。是非実現したい。

刑事裁判は変わらない・・・

裁判員裁判で、無罪の判決が出ていた事件で、3月30日東京高裁は逆転有罪として、懲役10年罰金600万円を言い渡した。

1審で、3名の裁判官と6名の裁判員が、証拠不十分「無罪」としていた事件を、たった3人の職業裁判官がひっくり返した。新たな証拠や明白な事実誤認もないのに、職業裁判官の目だけで、裁判員のかかわった判決は「証拠評価を誤った」と判断してしまった。
こんなことが許されるなら、刑事裁判に市民の感覚をとして導入された裁判員制度の意味が全く否定される。
しかも、この判決をした裁判官(裁判長だと思う)は、なんと、日野町事件の控訴審で主任を務めた裁判官である。明らかな誤認、誤審、誤判をした裁判官だ。客観的な事実と異なっている自白でも「根幹部分(殺したという点)は信用できる」と言い切った裁判官だ。こんな裁判官の「証拠評価を誤った」との評価を信用できるはずがない。
事実は私にはわからないが、こんな裁判官は信用するに値しないことだけは確信できる。

終結宣言 - おかしくないのか

弁護士登録した頃からずっとかかわってきた再審事件で、請求人であった無実の人が命を落とした。生きている間に助け出せなかったことが悔しい。

これを受けて、高裁は、現在係属中の即時抗告審の終結を伝えてきた。
再審手続きには、再審を開始するかしないかを決める前に請求者(無実だと訴えている人)が亡くなったときにどうするのかという規定を置いていない。大昔(旧刑訴法の時代)最高裁は、訴訟の「受継」の規定がないことを唯一絶対の根拠に、遺族らへの「受継」を否定した。
しかし、規定があるか無いかということであれば、「受継」の規定はないが、「終結」するとの規定もない。
通常の刑事手続きでは、被告人が死亡した場合には公訴を棄却する、と定めている(339条1項4号)。「公訴棄却」ということは、「終結」である。
再審手続きでは、そのような規定を欠く。
ということは、規定がないというだけでは、「死亡」=「終結」という結論にはならないはずである。
再審を請求をすることができるのは、有罪の言い渡しを受けた人だけではない。その人が死亡した場合にはその配偶者、直系の親族、兄弟姉妹も請求権者とされている(439条)。死んだら終わり、なのではない。
それなのに、49日を待つまでもなく(待ったからいいというわけではないが・・)、いきなり終結をしてしまってもいいのか。
人の人生を台無しにした司法の誤りをこんな形で(いったん)葬り去っていいのか。全くもって納得できない。

新たな遺言

数年前、遺言作成をした方から、事情が変わってきたので、内容を変えたいとの相談を受けました。

一般的に、前に作った遺言書の内容を、取りやめにしたい場合、原則としては、前に作った遺言を撤回することにするとの新たな遺言を作ることが必要になります。
しかし、これはあくまで「原則」であって、その通りにする必要はありません。
遺言をする人は、一旦遺言書を作成したとしても、その遺言の内容に拘束されることはありません。いつでも自由に変更できます。それが、全部であっても一部であってもかまいません(遺言撤回の自由)。
形式的には、遺言も法律行為ですから、法律行為の撤回は自由にはできないことになりそうですが、遺言の場合は、実際に相続が開始するまで、その遺言によって誰も何の権利も得ませんので、その撤回を認めても、誰の権利も害したりしません(期待は裏切ることになるかもしれませんが)。
遺言書を作成すると、その撤回には、再度撤回するとする遺言を作成しなければならないとすると、手間がかかります。
そこで、先に作成した遺言にはとらわれずに、全く新しい遺言を作成した場合、前の遺言の内容と矛盾するところが生じれば、矛盾するところについては前の遺言は撤回されたものと扱われます。
また、遺言で贈与の対象にしていた不動産を生きている間に別の人に売ってしまった場合等も、遺言は撤回されたものとされます。ですので、一旦遺言を作成したからと言って、遺言作成者がその内容に拘束されたりはしません。
自筆証書遺言の場合であれば、それを、自ら破り捨てるなり、焼き捨てるなりすれば、まさに「撤回」です。
自分で遺言を作る場合、日付は必ず記載しなければなりません(968条)。複数の遺言がある場合、上記のように作成の先後が非常に重要になりますので、作成した日付は、必ず遺言の中に書き記す必要があるわけですね。

岡崎公園を潰さないで

京都市で、岡崎公園再開発計画が打ち出されている。市内の中心部にある貴重な岡崎球場(軟式)を潰して、ショッピング街にするだとか、外国の富裕層目当ての高級ホテルを作るだとか、という話が出てきている。3月10日には、市民側が求めたことから京都市の説明会が開かれるようだ。

今日、岡崎グランド(球場)で練習をしていたら、住民無視の開発を批判する(内容だったと思う)街頭宣伝が行われていた。このグランドを使おうにも、なかなか抽選に当たらなくて、使えない。野球をやる人には非常に貴重なグランドだ。
みやビジョンなんかを見ていても、小学生や中学生の大会の中継(大体録画だろう)があり、見たような球場だと思ったら、岡崎グランドだったりする。
市内には、野球を始めスポーツ施設が不足している。
そんな中で貴重な施設をぶっつぶして(球場の周りの木々など貴重な市内の緑も消えることになろう)、商業施設を作る必要があるのか?
弁護士会野球部の端くれとしては、市民の利益にならない岡崎公園再開発計画は白紙撤回を願いたい。

受刑者も市民

「受刑者も市民」。今日レターケースを見ると、3月6日(日)の講演会の案内が入っていた、その表題が「受刑者も市民」とあり、副題に-厳罰化社会は何を生み出したのか、寛容な社会を考える-とある。この副題の方が、講演のテーマのようだ。

これを考えるとき、いったい刑罰とは何のために存在するのか、という基本的な考え方と切り離すことはできないと思われる。
「目には目を」で有名なハムラビ法典を例に出すまでもなく、「応報刑」が出発であることは何となくわかる。人を殺せば死刑だ、というのも「応報」感情からは非常に素直に納得できる。
しかし、時代が進むにつれ、文化が発達するにしたがって「教育刑」が重視されるようになってきた。その教育の中心は、受刑者の更生にある。悪いことをするとこんな罰が与えられるんだ、だから犯罪はやめなさいよ、という一般予防的な教育は重視すべきではない。
要は、犯罪を犯した者は、特別な(われわれとは別次元の)存在であり社会から隔離(場合によっては抹殺)すべき対象と見るのか、われわれ一般の市民と同様の存在であり再び社会に受け入れるのか、の発想の違いである。
ところで、刑法は、殺人を犯罪(殺人罪)として処罰の対象としている。「人を殺すな!」というメッセージである。
ところが、殺人罪の選択しうる刑罰には「死刑」が定められている。
一方で、人を殺すことは正義に反するとしながら、他方で、人を殺すことが正義だというメッセージを発している。
窮極の選択かもしれないが、最終局面において「人を殺すことが正義だ」とする社会が、本当に私たちの目指す社会でいいのだろうか。
寛容性と厳罰化は発想的には相容れない。寛容性のない社会は本当にそこに住むわれわれにとって優しい社会なのだろうか。しみじみと考えさせられた。

保釈保証金は還ってくるか

犯罪を犯したと疑われて、裁判を起こされてしまった被告人は、保釈が認められると、保釈保証金を納めて社会復帰することができます。ところが、逃亡などをして保釈が取り消されたりすると、保証金の全部又は一部が没取されてしまいます(刑訴法96条1、2項)。ですので、没取されなければ戻ってきます。
最高裁判所で、こんな判決が出ています。判決確定前に、呼出に応じず、逃亡していたとしても、保釈保証金の没取はできない(2010年12月20日 最高裁判所第二小法廷 決定)、というものです。
そのケースは、地裁で実刑判決が出され、控訴をし、保釈の許可が下りたので、釈放されていた被告人が、控訴棄却の判決を受けました。上告をした上で(ですので刑は確定していない)、再度保釈の請求をしたのですが、それは認められませんでした。そうすると、被告人は勾留されている状態に戻らないと行けないことになります。ところが、その被告人は、勾留のための呼出に応じず、数ヶ月の間、逃亡を図っていたようです。しかし、ついに見つかってしまって、身柄を拘束されると、観念したのか翌日には上告を取り下げたので、判決は確定し、その後は、刑に服すことになりました。
 そこで、検察が、逃亡を図っていたことでもあるので、保釈保証金の没取を請求したのですが、これが認められなかったというのです。
 逃亡しているんだから、当然保証金は没取されるのでは? と思うのですが、そうではないようです。
刑訴法96条3項では、「保釈された者が、刑の言い渡しを受けその判決が確定した後、執行のため呼出を受け正当な理由なく出頭しないとき、又は逃亡したときは、検察官の請求により、決定で保証金の全部又は一部を没取しなければならない」とあります。
 これは、保釈保証金を担保に刑の執行を確実にするためのものですから、判決が確定前に逃亡していた事実があっても、保証金の没取はできない、ということのようです。たしかに、身柄を拘束されてから、上告を取り下げて刑が確定していますから、確定してからの逃亡ではないですね。
意外な感じもしますが、たしかに、3項では、「刑が確定した後」となっていますから、条文通りの判断をしたということでしょう。
ただ、検察官が、被告人が逃亡している間に、保釈の取消を請求し、それを裁判所が認めて、保釈が取り消されると、2項によって没取されてしまうという事態があったかもしれません。
最初に認められた保釈と、公訴棄却後の保釈請求(認められなかった)との関係がイマイチよくわかりませんが、保証金没取との関係でもやっぱり逃げるのは危険でしょう。

検察長官会同

今日の新聞を見ていたら、16日「検察長官会同」が、東京・霞ヶ関の法務省で始まったという記事が目にとまった。この間の検察官の不祥事(証拠改ざん・犯人隠避等)にふれて、「調書至上主義があるなら、改めなければいけない。改革には不満が出るかもしれないが、良薬は口に苦い。しっかり受け止めて欲しい」と、訓示したとあった。

「調書至上主義」とはなんぞや、というと、ばくっというと、(刑事)裁判で、証人や本人の話を直に聞いたことよりも、捜査段階の「調書」を重視し、それを元に裁判を進めるということだ。

この前も、検事が「調書の方がわかりやすいですから」と、本人がいるにもかかわらず、捜査段階の供述調書(検面調書)の採用にこだわっていた。これをあっさり証拠採用する裁判官も裁判官だが・・・

「検面調書」とはなんぞや。書いて字のごとく、「検面」とは、検察官が面と向かって取り調べたということで、「調書」とは、(検察官が)被疑者(主に逮捕とか勾留されている人)を自らが取り調べて聞き出したことを、(検察官が)自ら作文して作り上げて書いたもののことだ。本当は聞き出していないことも含まれているかもしれない。言っているニュアンスが異なっているかもしれない。が、そんなことはお構いなしに、検察官の描くストーリーに合うように調書は作成される。

検察官が聞き出しているのに、検面調書は、1人称で、まるで被疑者本人が自分で書いたかのような体裁になっている。どういう質問にどう答えたのかというような経過は全く現れない。部分的にそのようにわざと作ることもあるが、たいがいが、「独白」調である。

だからこそ、どういう取調状況であったのかを、「最初から最後まで」録音や録画をして、記録にとどめておくこと(可視化)が求められている。この、取調の「最初から最後まで」というところが重要である。検察が進めてきている最後の段階だけの録画は全く意味がない。それどころか、害悪でさえある。

もし、検察庁が、本気で「調書至上主義」を何とかしたいと思っていたとしたら、取調の最後に調書を読んで署名・押印するところだけの録画を進めようとすることとは矛盾する。

だって、それは、調書を今後も裁判での重要な証拠とする(証拠としたい)、ということの表れですからね。

「自白は証拠の女王である」  問題は、ここから脱却するかどうかなんだけど。

禁止区域侵入

新燃岳の規制区域に観光客らが侵入するケースが後を絶たないとの報道がされている。

問題となっている場所が市道なので、何か問題があると、市側に管理責任も生じかねない。しかし、危険だからと侵入防止の標示等をして危険回避を呼びかけているのに、そこで何らかの被害(土石流に巻き込まれたり、噴石の直撃を食らうなど)があった場合にまで、侵入を食い止めなかったとして、何らかの責任が国や地方自治体に生じるのだろうか。

火山活動によるようなケースは、見た限り見つけられなかったが、台風などの異常気象時の道路設置管理の瑕疵が問題となったケースは、少数ながらあるようだ。

一般的な基準としては、「当該道路の構造、場所的環境、利用状況等の具体的、個別的状況に応じ、通常予測可能な危険に対する安全措置が講じられていない場合」には、瑕疵が認められることになるといえる。ただ、この基準では、なんかいろいろ検討して危ないなぁと一般的に思えるのに何も対処しなかったら責任あるよ、といっているくらいで、具体的なケースに当てはめてすぐに答えが出てくるというようなものでもなさそうだ。

危険を承知で、危険な場所にあえて近づき、危険が現実化したら、常識的には、「自業自得」、他人の責任を問題にはできないですよ、ということにはなりそうである。

最近、スキー場でも、禁止区域に侵入して「要救助」という状態になった場合、自費でしか救助しません、と表示されているゲレンデもある。さもありなん、というところだが、この発想を山登りなどの場面に安易に持ち込んで欲しくはない。

いずれにせよ、万が一のことが生じた場合、救助に向かった人が巻き込まれるなど、二次被害も生じる危険があるのだから、危険区域への侵入は控えた方がいい。自己責任、という話だけでは済まないこともありうるのですから。

死刑求刑事件で無罪判決

鹿児島地裁で40日かけて審理されていた強盗殺人事件、(裁判員裁判で)無罪を争っている被告人に死刑を求刑した初めての事件だったので、判決が気になっていた。

無罪!

仮に灰色状態であれば、そんなので有罪となってはたまらない。それが、その人をこの世から抹殺することになる死刑であればなおさらだ。

さて、これまで裁判員の判断を尊重する、と言ってきていた(はずの)検察はどう対応するのでしょうか。

私としては、元々検察官控訴という制度を廃止すべきである(本来の2回危険の禁止にする)と思っているので、控訴は絶対に止めるべきだと思う。これで控訴してひっくり返るようなことにでもなれば、裁判員制度の意味がなくなる。この2週間(控訴期限)の検察の動きが注目される。

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