明けましておめでとうございます。
事務所の業務開始は、2019年1月7日(月)からですが、そろそろ頭も身体も仕事モードにせねばと、昨日から事務所に来て、色々整理をしています。
昨年の左腕の骨折については、多くの皆さんから心配や励ましの言葉を頂戴しました。どうも有り難うございます。
いただいた年賀状を読むと、何人かの方が手や足の骨折を経験されていることを知りました。本当に油断禁物です。
今年は、「暴走」せず、地にしっかり足をつけた生活をすることをあらためて決意しています。
腕の経過ですが、昨年末の診察でシーネ(固定)が取れました。
でも、手首が十分に動かず、ひねることもできませんし、重い物を持つこともできませんので、家事などにはまだ不自由をしています。
我流のリハビリではなかなか改善しないので、もう少し時間を見つけて、病院のリハビリに通おうと思っています。
今年もよろしくお願い申し上げます。
ブログ マチベンの日々
暖かい冬だったが、昨日は夕方から雪が少し降り、寒い年末年始になりそうだ。
事務所は、昨日28日で業務終了となったが、今日も事務所に来て残務整理をしている。
左腕の怪我の方は、一昨日の診察で、固定していたシーネを取ることができ、医師からは、もっと頑張ってリハビリするよう指示された。
まだ左手の自由があまりきかないので、日常生活は不便なことが多い。
でも、怪我が右手でなかったことや重傷でなかったことなど、不幸中の幸いだったと思うことにしている。
事故後は、自転車に乗ることはやめ、運動不足にならぬよう遠くても歩くよう心がけている。
来年から、色々な意味で、もっと地に足をつけた生き方をしていこうと思う。
今年一年もお世話になり、有り難うございました。
来年もよろしくお願い申し上げます。
11月24日(土)の午後、自転車でこけてしまった。
左前腕が動かない!(アチャー!)
もしかしたら折れたかも・・・嫌な予感。
夕方、救急外来に駆け込んだ。
救急医からは「骨折してます」「手術が必要となると思う」と告げられ、とりあえず外側から骨の位置を元に戻してもらい(整骨)、ギプスで固定してもらい帰宅した。
11月26日(月)に病院であらためて診察を受けた。
やはり「手術が必要」との診断。
その週の仕事の予定をキャンセルすることは困難と思われたので、翌週12月3日(月)に手術を受けることにした。
その週は、痛々しい(?)姿で裁判所に出かけたりしたが、腕は固定されていたので、不思議と痛みはあまり感じなかった。
左腕だったことが不幸中の幸いで、事務員さんにも助けてもらいつつ、仕事は右手だけでパソコンを打ち、家事もなんとか右手でこなした。
手術の説明なども受けねばならず、11月30日(金)に入院。
これまで家族が入院して付き添ったことは何度もあったが、自分自身は、中学2年の盲腸の時以来。
人生の束の間の休息と考え、パソコンは持参しなかった。
割り当てられた大部屋(4人部屋)には、他の入院患者はおらず、12月2日(日)の午後までは一人だった。
広い部屋に1人でいるのもかえって淋しいものだが、テレビもほとんど観ず、おかげで手術までに文庫本の小説2冊を読み終えた。
デイルームに行くと、他の入院患者の女性らがおしゃべりをされていて、酔っぱらって、階段から落ちた、窓から落ちたなどと聞いて、つくづく世の中には色んなことが起きるものだと思った。
食事は手術前日の2日まで、水分摂取も当日3日午前9時までだった。
午後2時半、手術室へ。
台に横になり、「心電図と脳波を測ります」と言われた後は記憶がない。
目を開けたら、手術は終わっており、部屋に戻っていた。午後6時前。
左腕は、麻酔が効いており、痛みもないが、全く動かず、感覚もない。
翌4日朝、左手の指の感覚はなんとなく戻ってきているようだが、肘周辺の筋肉の感覚が全くなく、自分の意志で前腕を動かすことができない。
このまま曲げ伸ばしが出来なくなってしまうかも・・・などと不安になる。
午後になって、やっと指も肘も感覚が戻って来た。
また、ベッドから起き上がって歩くこともできた。
夕方、主治医が来られ、5日朝の退院が許可された。
そして、12月5日退院となった。
午後からは事務所に出かけ仕事。
「あの時あそこに行かなければ」など後悔がよぎるが、そんなことを嘆いても時間は元には戻らない。
左手が動かないというだけで、日常生活がいかに不便か不自由かが実感できた。
周囲の人の助けや健康のありがたさを痛感した。
これも人生の勉強。
さあ、これからは、リハビリに励もう!
「日々是好日」を読むと抹茶が飲みたくなり、「ツバキ文具店」を読むと手紙が描きたくなる・・・本ってすごい!
季節の変化、鎌倉の人々とのふれあい、代書を依頼する客に寄り添おうとする主人公の思いが描かれ、時がゆっくり流れ、気持ちが穏やかになる。
主人公雨宮鳩子は、鎌倉で文具店を営みながら、代書屋も営んでいる。
祖母にあたる先代から引き継いだ家業である。
幼い頃から祖母に「書」を厳しく教えられ、そんな祖母に反発し、死に立ち会うことすら拒否したが、今は代書屋を引き継いでいる。
鳩子の代書は、客から依頼された中身によって、字体、筆記具、紙、封筒、切手までもを変えるというもの。
その変化が面白い。
最後は、祖母の思いと鳩子の思いが書によって交錯する。
この「ツバキ文具店」は、テレビドラマになったようだが、残念ながら私は観なかった。
先日亡くなった女優江波杏子さんが隣人のバーバラ婦人役だったようだが、適役だと思った。
今朝のNHKの7時のニュースで報道された、奈良市にある、とんかつ屋さん「まるかつ」食堂。
子ども食堂ではない。
普通のとんかつ屋さん。
その普通のとんかつ屋さんが、今年5月から、お金のない人には、食事を無料で提供しているというから、やはり普通のとんかつ屋さんではないようだ。
店には、こんな張り紙が。
「もしどうしても、お腹がすいても、お家にお金がないときやお子さんにおいしいものをお腹いっぱい食べさせてあげたいのにご事情があってむずかしいときなどはコソッと店長に相談してください」
「そのときは、店長のおごりで、コソッと無料でお腹いっぱい食べてもらいます」
「世の中お互い様ですので、お代は出世払いでもいいですし、忘れてもらってもいいです。少しでも元気を出すきっかけになればうれしいです。」
店長は金子さん。こんな人が世の中にいるんだなあ・・・。本当に頭が下がる思い。
そして、この「まるかつ無料食堂」のことはSNSで広がり、金子店長を応援しようと、店には、(お金を払う)お客さんもたくさん訪れているらしい。
私も、金子さんを応援するために、「まるかつ」のとんかつを食べに行ってみたい。
本屋さんに行くのが好きだ。
若者の間では、最近、普通の本屋さんのことを「リアル書店」と呼ぶ。
ネットで本を注文する「ネット書店」との対比でこう言うらしい。
そしてアナログ派の私が訪れる本屋は専ら「リアル書店」。
時間がかかっても、本屋さんの中をブラブラめぐり、「面白そう」とたまたま手に取った本に思わぬ出会いがあったりして、楽しい。
先日、本屋さんで見つけたのが「国境なき助産師が行く」という本。
「国境なき医師団」なら知ってるけど・・・
「国境なき医師団」(MSF)は、1971年、フランス人の医師を中心につくられた国際的なNGOで、医療や人道援助を行っている。
1999年にはノーベル平和賞を受賞した。
一口に「国境なき医師団」と言っても、その中の職種は多岐にわたり、医療職では医師だけなく看護師、助産師、薬剤師、臨床検査技師も、非医療職では物流管理や建設などのロジスティシャンや、人事・財務などのアドミニストレーターなども含まれる。
本の著者小島さんは助産師でスタッフの一人。
小島さんは、1984年生まれの女性で、2014年から「国境なき医師団」に登録されている。
医療のない場所や危機のある場所にどこにでも駆け付け、緊急医療援助活動を行っており、そこに自ら参加するスタッフには本当に頭が下がる思いである。
でも、私たちが日頃のニュース報道で知る紛争地域の人々や難民の生活などは、ほんの一部であり、まして国境なき医師団がどのような活動をしているかなども全く知らない。
この「国境なき助産師が行く」という本を読めば、少しは紛争地域の現状やMSFの活動がわかるかもしれない、そんな思いで読んでみようと思った。
小島さんは、2014年3月から2017年9月までの間に、パキスタンの病院、イラクのシリア人難民キャンプ、レバノンの難民キャンプ、地中海難民ボート、南スーダンの国連保護区で働いた。
充実した設備もなく、言葉もわからない、文化も宗教も違う、教科書では見たことがないような症例がどんどん運ばれてくる・・・・
現地スタッフとの意思疎通に困難が伴うことはもとより、小島さんのように多くの海外から派遣されてくるスタッフ同士の意思疎通も大変。
とても想像できない世界だ。
中でも、アフリカ大陸から海を渡ってヨーロッパへ向かう難民の実態は壮絶である。
2016~17年だけで8000人近くの難民が、リビアからイタリアに向けて地中海を渡る途中に命を落としている。
リビアからイタリアのシチリア島へは大型船でも2日はかかり、粗末なゴムボートなどで渡れるはずもなく、それら難民を救助する地中海捜索救助船の中で、2016年11月から2017年2月まで、小島さんは働いた。
難民救助後は、救急処置はもとより、食事の用意からトイレ掃除まで、お産以外の業務にも従事する。
また、船ではたった一人の助産師として何人もの妊婦検診を行うが、妊婦の半数は売春やレイプからの妊娠だったという実態。
小島さんは、思う。
同じ地球で、同じ時を刻んでいるのに、たまたま生まれた国が違うだけなのに、どうして世界はこんなに違うんだろう。
日本という国に生まれ、自由に行動する権利が私にはありました。そして、世界を見ると、それは誰もが持っている権利ではないとわかりました。
折しも、シリアで拘束されたフリージャーナリストの安田純平さんが解放されて帰国し、またしても、ネット上では、自己責任論が炎上しているとのこと。
でも、日本では想像できないような、海外で今、起こっている事実を誰かが伝えてくれなければ、私たちはそんな実態を知ることすらできないと思う。
実態を知っても、何か大きな貢献ができるわけではないが、それでも私たちができることは、きっとある。
※この本の印税の一部は、地中海救助船で働く市民団体「SOSメディテラネ」にあてられるとのことです。
また、「小島毬奈」でネット検索すると、いくつかのサイトで、写真も含め、彼女が書いた海外の実態を読むこともできます。
前日(27日)、10月28日(日)の天気は快晴ということがわかったので、紅葉と展望を期待して、急遽、滋賀県にある蛇谷ケ峰(じゃたにがみね。902M)に登ることにした。
蛇谷ケ峰は、滋賀県の山で、比良連山の北端にある。
これまで武奈ヶ岳から蛇谷ケ峰まで縦走し、滋賀県朽木の「想い出の森」に下山するというコースを2度程歩いたことがあった。
今回は、朽木スキー場からの登山コースを登ることにした。
朽木スキー場に着くと、登山者らしい車が1台停まっているだけだった。
最初、登山口がどこかわからなかったが、先に来ていた登山者2人が山の方向へ入っていったので、そこが登山口だと気が付いた。
登山口は、ゲレンデに向かって下の右側にあり、「さわらび草原」という大きな木の看板が立っていた。
登山道は広いジグザグ道で、歩きやすかった。時折、木々の間から琵琶湖を望むこともできた。
木々は紅葉していたが、あまり鮮やかではなかった。
先行する二人の登山者は老夫婦のようで、妻だけがリュックを背負い、夫はダブルストックを突きながら、ヨロヨロと登っていた。
二人を追い抜いた後に、後方から、夫が「ジグザグ道でつまらない」と言い、妻が「高齢者にはピッタリ」と言う会話が聞こえてきて、私も体力が落ちてきているため、内心「そうだ、そうだ、ラクチンで良い登山道や」とつぶやいた。
山頂は、広々としており、快晴の青空のもと、360度の展望を楽しむことができた。
以前、蛇谷ケ峰まで縦走してきた武奈ヶ岳。
琵琶湖遠望
山頂で昼食を作って食べて、1時間20分ほどのんびりしていた。
その間に、老夫婦も山頂に到着し、昼食を食べ、先に下山して行った。
上りは、朽木スキー場ゲレンデ下のさわらび登山口から出発したが、下りは、上ってきた登山道の途中の分岐からスキー場ゲレンデ上部につながる登山道を下りる予定にしていた。
山頂から少し下っていると、老夫婦の妻の方が一人で戻って来て「老人と会いませんでしたか?」と尋ねられた。
その地点までは1本道だったので、「誰にも会わなかった」と答えると、妻は、そのまま来た道を下りていった。
「おとうさんと、はぐれちゃったんかなあ」と少し心配になった。
分岐に着き、看板には、左方が上って来た道で「さわらび草原へ」、右方は「スキー場へ」と書かれていたので、右の登山道を進んだ。
ところが、「スキー場」への登山道を少し進むと、すぐに道が不鮮明となり、テープだけを頼りに、急な斜面を下りなければならず、「雨乞岳の二の舞や~」と不安になり、こちらのコースに来たことを後悔した。
それでも、テープを見つけながら注意深く下りていくと、そこに、なんと老夫婦の夫がうずくまっており、「2回転んだ」らしく、瞼や額から血を流していた。
ストックを持っていただけで、荷物は何も持っていなかった。
妻が先に行ってしまい、分岐の所で、上りはスキー場下部から上ってきたから看板の「スキー場」の方向へ下りたそうで、出会った時点までは、まだ上ってきた道を下りていると思っていたようだった。
すぐに妻に電話するように言うも、電話はコールだけでつながらなかった。
年齢を尋ねると、「82歳」と言う。登山も10年ぶりとのこと。
もとより放っておけるはずもなく、テープを頼りに一緒にゆっくりと下山することにした。
途中で妻にも電話連絡がついた。
何度も立ち止まったり、時々転倒しそうにもなり、ケガした箇所が「痛い」とは言っておられたが、なんとかスキー場の上部の登山口まで下りることができ、そこまで汗をビッショリかきながら迎えに来た妻と無事合流することができた。
このコースは、ほとんど登山者が利用しない登山道で、しかも帰宅後ネットを読むと、蛇谷方面に道迷いした人もいるようで、この男性を見つけたことは幸運だった。
高齢者の登山事故が増加しているが、実際に「助けた」という経験はこれまでになく、登山事故というのはこういうふうに起きるんだなと実感するとともに、役に立てて本当に良かったと思った。
言わずと知れた、森下典子さんのエッセイである。
現在、文庫本の売り上げベスト1とのこと。
上映中の、黒木華・樹木希林共演の映画も話題となっており好評。
私は、本を先に読み、それから映画を観た。
「日々是好日」は、森下さんがひょんなことから20歳でお茶の稽古を始めてから24年の間のお茶を通して体験したことが綴られている。
本を読了した時、静かに感動する気持ちを覚えた。
私は森下さんと同世代であるが、大学生の頃、「お茶」は、「生け花」「着付け」などと並んで嫁入り修行の1つとされ、その意味で、私には、習う気持ちなどさらさらなかった。
弁護士になってまもなく、知り合いとなった女性の方からお茶の会のようなものに誘われ1度だけ参加したことがあったが、その時も難しい作法がたくさんある「お茶」を習ってみようとは思わなかった。
その後、どんなきっかけだったかは忘れてしまったが、「お薄」が好きになり、母が持っていた抹茶茶碗をもらい、茶筅と抹茶を買って、自宅で我流でシャカシャカと茶筅でかき混ぜて飲んだりしていた。
それも、ここ数年は、遠ざかっていた。
「日々是好日」の著書には、「『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」という副題がついており、第1章から第15章の中に、森下さんが「お茶」の世界から感じ取ったもの、そして森下さん自身が「お茶」を通じて体験し成長していく様が描かれている。
「世の中には、『すぐわかるもの』と、『すぐにはわからないもの』の2種類がある。・・・すぐにわからないものは、・・・何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわかりだし、『別もの』に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。『お茶』って、そういうものなのだ。
「瀧」と書かれた掛け軸から水しぶきを感じる、
6月の梅雨の雨音と11月の秋の雨音との違い、
水やお湯を注ぐ時の水音のきれいさ、
今という季節を、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感ぜんぶで味わい、想像力で体験する。
「日々是好日」ってどんな意味?
「毎日がいい日」って他にどんな意味があるの?
これが、この本のテーマ。
「第13章 雨の日は、雨を聴くこと」
お茶を始めて15年目。
「雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れるような寒さを味わう。・・・どんな日も、その日を思う存分味わう。
お茶とは、そういう『生き方』なのだ」
どんな日も「いい日」。毎日がいい日に・・・
「日々是好日」はそんなメッセージ。
外に出ると、なんとなく、空の色も、空気も、木々の匂いも、水の音も今までと違うように感じる。
そして、無性に「お茶」が飲みたくなってきた。
10月13日、土曜の朝のテレビ番組に、茨城県のひたち海浜公園の真っ赤な「コキア」が撮されていた。
「見てみたい!」と思った。
そう言えば、確か、滋賀県の箱館山(はこだてやま)にもコキアパークがあったな。
思い出してすぐにネットで検索すると、なんと2018年は、明日10月14日で終了するとあった。
そこで、最終日の14日に箱館山に行くことにした。
10月14日、天気は晴天。
昼に仕事があったので、仕事終了後の午後3時頃に、箱館山ゴンドラ山麓駅に着いた。
最終日の午後3時だと言うのに、駐車場にはまだたくさんの車が駐車されていた。
ゴンドラに乗って、標高627mの山頂駅へ。
山頂は、冬季は箱館山スキー場となるが、その草原の一部にコキアパークがあった。
コキアを眺めながら、スキー場の中をブラブラと歩く。
コキアは、、和名をホウキギと言い、まるで、ほうきの先のように円錐形の形をしている。
干して、本当に草ほうきにするとのこと。
夏は緑色で、秋になると赤色に変わる。
かわいい!
緑色から赤色へ変身中?
コキアパークの規模は、ネットの写真を見る限り、おそらく茨城県のひたち海浜公園とは比べものにならないと思われたが、それもでコキアを初めて見ることができ、楽しかった。
(前回のブログの番外編)
10月6日、御射鹿池(みしゃかいけ)からの帰途、道路沿いに「蓼科・花ファクトリー」という看板が目に入った。
あれ?どこかで見たことがある店の名前やなあ・・・
確か、テレビで、山岳気象予報士・猪熊隆之さんのドキュメンタリー番組が放映された時、猪熊さんがよく通う、八ヶ岳が一望できるカフェとして紹介されていた店じゃないかなあ・・・
(猪熊さんに関する私のブログは、右検索欄に「猪熊」と入力してご覧ください)
気になったので、翌10月7日、双子山から下山後、遅めのランチを「蓼科・花ファクトリー」で食べることにして、立ち寄った。
店の外観の写真を撮ることを忘れてしまったが、ログハウス調で作られた大きな建物で、玄関を入って右側の部屋は雑貨小物やアクセサリーが販売されており、左側がレストラン・カフェスペースとなっていた。
レストランは、天井も高く開放的で、ウッドデッキにつながる窓ガラス(壁?)が全面的に取り払われており、本当に八ヶ岳が一望できた。
八ヶ岳が一望できるカウンター席に座り、焼きカレーと千年豆腐おからグラタンを注文した。
「千年豆腐おからグラタン」というのは、やはりこの周辺にある「千年豆腐」という豆腐屋さんの豆腐とおからで作ったグラタンのようだ。
ところが、グラタンは売り切れたとのこと。ガッカリ!
やむなく、カレーパンを注文した。
カレーパンの具のカレーはちょっと「あん」のように甘口で、期待外れだったが、焼きカレーの方は、雑穀ご飯にピリ辛カレーがかけてあり、美味しかった。
そして、近くのテーブルの客が、ケーキ「ミルクレープ」と食べていたので、食後のデザートとして私も注文した。
これがまた、そんなに甘くなく、ふんわりとした層になっており、とても美味しかった。
心地よい風に吹かれて八ヶ岳をずっと眺めながら、食事ができ、本当に落ち着くことができた。
翌10月8日、「千年豆腐おからグラタン」のことがどうしても気になったので、白駒池に行く前の午前10時半に、早めのランチを食べようと「花ファクトリー」に再び立ち寄った。
早速、グラタンを注文すると、店の女性が「昨日、売り切れてしまったので、まだ仕込みができていない」と言う。
「えーっ、昨日グラタンが食べられなかったので、今日は早めに来たのに・・・」と泣きそうな声で言うと、「2時頃までには出来るように頑張ります」との返事。
「それなら2時頃にまた来ます」と言って、何も食べずに店を出た。
白駒池は大渋滞で車が駐車場に入れずあきらめ、午後1時半まで時間をつぶして、三たび「花ファクトリー」へ。
実は、店に来るまでに、「花ファクトリー」の「ピザ」が絶品という他の人のブログを読んだ。
そこで、「高原野菜ピザ」と「グラタン」を頼んだ。
なんと、そのピザの美味しかったこと。
これまで食べた中では、1番だと思う。
生地は薄く、その上に高原野菜がたっぷり乗っていた。
なんか、グラタンに恋こがれたが、すっかりグラタンがかすんでしまった・・・
この日も、吹く風はさわやかで、八ヶ岳もよく見え、美味しいピザもいただき、心地よいひとときを過ごすことができた。
また、蓼科に来たら、必ず寄ってみたい店だった。
なお、店の中に、猪熊さんが経営する山岳気象専門の会社「ヤマテン」の宣伝チラシが置いてあったので、間違いなくテレビ番組に登場した店だと確信した。
週末毎に、日本列島を襲う台風。
先週も台風25号が到来したが、日本海側を大きく回って進んだので、10月6日から8日の連休、紅葉を楽しむため、蓼科と八ヶ岳山麓の旅にでかけた。
●10月6日(土)
長野県茅野市に着いて、まずは昼食。
「小作」という店で「ほうとう」を食べる。
「ほうとう」は主に山梨県近辺で食べられる郷土料理で、名古屋の「きしめん」をもう少し太くした麺で、味噌煮込みうどんのようなもの。
食べるのは久しぶり。
かぼちゃ、人参、大根、じゃがいも、小芋、白菜などの野菜がゴロゴロ入っており、結構なボリューム。
満腹となった。
お腹を満たした後は、奥蓼科の標高1540m地点にある御斜鹿池(みしゃかいけ)へ。
御射鹿池は、農業用のため池で、農林水産省の「ため池百選」にも選ばれている。
東山魁夷の絵画「緑響く」のモチーフとなり、また、シャープの液晶テレビ「アクオス」のテレビCMで一躍有名となった池である (実は、私は、全く知らなかった)。
紅葉にはまだ少し早かったが、池の水はとても澄んでいた。
次は、奥蓼科温泉郷の1つ渋・辰野館という宿の近くの登り口から山(丘?)を40分ほど登って「八方台」という見晴らし台へ。
登山道には、これまでの台風による倒木が何本も道をふさいでいた。
八方台からは、八ヶ岳の展望が素晴らしかった。
登って来た道を戻り、せっかくなので、渋・辰野館の日帰り温泉に入る。
ここの温泉は「信玄の薬湯」と書かれた、ひなびた温泉で、お湯は白濁し、湯船の深さは90㎝もあった。
汗を流し、気持ち良かった。
●10月7日(日)
この日は、軽めの登山。目的は双子山を経て双子池へ。
車で大河原峠(標高2093m)まで行き、そこから歩いて双子山(2224m)まで登る。
なだらかな登り。25分ほど登って山頂へ。山頂は、だだっぴろい。
雨は降っていないが、雲が低くたれこめ、風も強い。
山頂からは、更に標高差約200mを下って双子池(標高2030m)へ。
湖畔には、双子池ヒュッテもあり、子ども連れの登山者などが食事を食べたりしていた。
この池は、山を越えて歩いて来なければたどりつけないので、一般観光客はおらず、静かな雰囲気だった。
おなかがすいたので、ヒュッテでお勧めの豚汁を食べる。
ここの豚汁も具がたっぷり入って美味しかった。
その後、双子池を散策。
雄池
雌池
湖周辺の木々は少し色づいていたが、やはり紅葉真っ盛りには少し早かった。
●10月8日(月・祝)
北八ヶ岳の広大な原生林の中にある白駒池に車で向かう。
標高2100m以上の湖としては、日本最大の天然湖だ。
池周辺には美しい苔がたくさんあることでも有名で、これまでにも何度か訪れたことがある。
でも、紅葉シーズンは初めて。
白駒池へは国道から歩いて15分位で行けるので、紅葉シーズンともなると、観光客がたくさん訪れる。
予想はしていたものの、その予想を超える大渋滞。
駐車場に入れない。
紅葉シーズンの白駒池には、どこかから歩いて登って来るしかない。
あきらめて、昼食後、横谷峡へ。
この峡谷には、いくつかの滝があり、沢沿いの道を歩くことができる。
ここは、それほど有名ではないのだろうか、散策している人は少ない。
乙女滝
屏風滝
この辺りの滝は、冬になると、凍って氷瀑となるとのことで、是非、冬にもまた来てみたいと思った。
樹木希林さん(75歳)が2018年9月15日亡くなった。
私は、彼女が悠木千帆という芸名だった時代から、彼女が出演するテレビドラマをよく観ていた。
全身ガンに侵されても、なお、自然体で生き抜いた女優樹木さんの人生に感銘を受け、その死を悼むブログや追悼のテレビ番組が放映され、今まで知らなかった樹木さんの一面を知ることとなった。
実は、樹木さんは、芸能界で「政治的」として嫌われるような行動も厭わなかった。
2015年7月、東海テレビのドキュメンタリー番組撮影のため、樹木さんは沖縄を訪れた。
樹木さんは、撮影では予定されてはいなかった名護市辺野古のキャンプ・シュワブのゲート前を訪れ、基地反対を叫び座り込みを続けている人々の言葉に耳を傾けた。
樹木さんは、座り込み運動を続ける86歳のおばあ島袋文子さんの隣に座り、「辺野古問題を俳優仲間に広める」と語ったという。
また、翌2016年3月には、普天間飛行場の名護市辺野古移設に伴う新基地建設をテーマにした映画「人魚に会える日」のイベントで監督と対談した際、「無知を恥じているんですよ。中に入ってみると、相当な苦しみがあるんですよね」と沖縄への心情を吐露した。
樹木さんが元ハンセン病患者という役で主演した映画「あん」。
その原作者であるドリアン助川さんが、2018年9月21日付け京都新聞朝刊で樹木さんとの思い出を語った。
2015年、なかば紛争状態にあったウクライナでのオデッサ映画祭。
周囲から止められたが、「そういうところだからこそ行ってあげたいわよね」と樹木さんは言い、ドリアン助川さんと二人だけで参加。
目頭を押さえているウクライナの人々を樹木さんは静かに抱きしめた。
そして、ドリアン助川さんの、締めの言葉は、前記した沖縄の樹木さんの姿につながっていく。
「そのウクライナの映画祭からの帰り、樹木さんは、自宅に戻らず、なぜかそのまま沖縄へ向かった。翌日、辺野古埋め立てを阻止しようとする沖縄のおばあたちと腕を組む希林さんの姿があった。映画際からの衣装そのままで」
これからしばらくは、樹木さんの知られざる人生に触れることになるだろう。
雨乞岳は、鈴鹿山脈の第2峰(1238m)で、滋賀県東近江市と甲賀市にまたがる山である。
山頂に小池(大峠の沢)があって、古くから雨乞信仰の山として下流農民がこの池に登拝していたのが、山の名前の由来らしい。
2018年9月の連休の15日(土)・16日(日)は雨予報で、17日(月・祝)は天気は回復するということだったので、17日に山に登ることにした。
さて、問題は、雨乞岳というこの山である。
最初からあまり気は進まなかった。
その最大の理由は、ネット情報だが、「道迷い」が多いということ。
2番目に、梅雨から晩秋かけては、ヒルが出るということ。
でも、「どうしても行きたい」という同行者の熱意(?)に抗えず、しぶしぶ行くことにした。
それでも、心配性の私は、前の晩、ネットで雨乞岳の登山記録をいくつも読みあさり、道迷いし易い場所などを頭に入れた(つもりだった)。
午前9時、鈴鹿スカイラインの武平峠の駐車場(滋賀県側)に到着する。
初心者コース(のはず)のクラ谷ルート登山口は、駐車場近くにあった。
しかし、せっかく登山届を準備して持参したにもかかわらず、ネットブログの過去の写真には写っていた、登山口に設置されていたはずの登山ポストはなくなっていた。
登山口
クラ谷コースは、この登山口から雨乞岳山頂まで、ルート上に①から⑨までの看板が設置されているようだった。これなら安心。
出発時点では、天候は薄曇りで、太陽も見え隠れしていた。
登り始めこそ、植林された木立の中をゆるやかに登ったが、すぐに急坂となり、登山道は荒れ、幅が狭い所を何カ所も通過した。
それでも、登山道のテープを確認しながら進んだ。
看板③で休憩した後、やや下った場所に、次のような標識が木につるされていた。
前の晩に読んだネット情報では、コクイ谷出合は、迷い易いコクイ谷ルートの先にある場所だ。
こっちに行ってはいけないんだ、と思い込んでしまった。
そして、この標識の左前方方向にも登山道があって、木にテープもついていたため、そちらの道を進んでしまった。
登山道はあまり鮮明ではなかったが、木にテープがしっかり装着されており、それをたよりに進んだ。
アップダウンを繰り返して登っていったものの、この登山道は「谷」というより「尾根」で、しかも、そこにあるはずの看板④に出くわさない。
やっとつながった同行者のスマホアプリで確認すると、どうやらクラ谷コースと平行する「群界尾根」(ぐんかいおね)であることがわかった。
前の晩に、A弁護士の雨乞岳のブログを読んだ中に「群界尾根」コースを登った記録があった。
昭文社の登山地図には、まだ登山道として表示されていないバリエーションルートだ。
気づいた時点で既に標高1000m辺りまで来ていたので、そのまま進むことにした。
「群界尾根」コースの途中にある三人山。
この標識は、おそらくA弁護士がつけたものだろう。
三人山辺りからは、天候は次第に悪化していき、ガスが立ちこめてきた。
三人山を越えると、あとは、東雨乞岳までの登りだが、これが急登で、滑り落ちそうになりながら必死に登る。
しかも、時折、雨も降り出してきた。
斜度がやや緩くなって笹藪の中の登山道を進み、ようやく東雨乞岳山頂に到着した。
山頂には誰もおらず、ガスと強風で、そこから10分ほどの位置にある雨乞岳の姿さえ全く見えない。
しかも、登山靴には、1匹のヒル(初対面)がクネクネと動いており、悲鳴を上げて振り払った。
風を避けつつ、なんとか昼食を作って食べる。
昼食後、全く姿が見えない雨乞岳には行かず、そのまま、予定していたクラ谷コースを下山した。
クラ谷コースは、テープをたよりに、沢を何度も徒渉しながら進む。
看板④までは、通り過ぎた。
ところがである。
テープをたよりに進んでいたはずにもかかわらず、なぜか、またしても、クラ谷コースから離れ、群界尾根の直下まで来てしまっていることに途中で気が付いた。
やむなく、再び群界尾根ルートに入り、そこから、なんとか登山口まで下山することができた。時間は、午後4時45分になっていた。
無事に登山口まで戻れてホッとしたが、足は疲れ果ててクタクタだった。
登りも下りも道迷いをするは、ヒルに出会ってしまうは、天気は悪いは、で、散々な登山となった。
阿川佐和子さんの「看る力」(文春新書)を読んだ。
この本は、エッセイストの阿川佐和子さんと、よみうりランド慶友病院を開設した医師大塚宣夫さんとの対談である。
目次は、
Ⅰ 看る力・家族編
Ⅱ 看る力・夫婦編
Ⅲ 看られる覚悟ーあなたが高齢者になったら
の3部で構成されている。
深刻な介護体験をされている方にとっては、やや「軽すぎる」あるいは「金があるからできる」内容かもしれないが、「なるほど」と思わせる場面もあり、納得して読むことができた。
私が「なるほど」と思ったところ
●飲み込みに障害がある人でも「好きなものなら喉を通る」
食べることは、人間の最後まで残る楽しみであると同時に、高齢者の生きる力を測る目安としても、とても大事。
よみうりランド慶友病院は、病院食がとてもおいしく、また、ステーキや寿司などを特別に注文することもできる。酒もOKとか。
●認知症は、自分の中に入ってきた新しい情報をうまく処理できなくなっている常態なので、周囲は非難しない。とがめられないという安心感を与える。
●介護は長期戦と心得よ。
できるだけたくさんの人を巻き込み、関わるみんながときどき休める仕組みを作る。
●「後ろめたさをもつ」(例えば、ゴルフに行く)と、そのせいで優しくなれる。
息抜き上手は介護上手。
●スキンシップは大事。
●一人暮らしは老化防止の特効薬
風呂に毎日入らなくたって、1日3食食べなくたって、部屋が汚くたって、夜寝なくて朝起きられなくたって、そんなことは生きることにおいてなんの障害にもならない。
●孤独死で何が悪い
●施設に預けるのは親不幸ではない
●身内の甘え(介護される側は「この程度はやってくれてもよい」、介護する側は「この程度は我慢してくれてもいい)は、最大の敵。
介護のプロのスキルは違う。
●認知症にとって、もっとも効果があるのは、自分が周りから注目されること、あるいは必要とされること。
自分自身のことで言うと、「看られる覚悟」編がなんとなく得心できた。
●75歳からが本当の老後。車で言えば、ポンコツ車。メンテナンスが悪ければ早くダメになるし、良ければ少し長持ちする。
●「老人は休むな」
休養期間が長くなると、今度は動きだしが大変になるから、75歳過ぎたら自分の体の言うことは聞いてはいけない。
使わなかったら、体はたちまち衰える。
●他者から望まれることが一番いい。でも、その他者とかかわりを保つのにも努力が必要。
●不良老人になろう
●自分のつくった財産は自分で使い切る。
「老い」は誰しもが避けられない道。
私の場合、趣味の登山をする時、体力の低下を感じることが多い。
あまり「ラクチン登山」ばかりを目指さず、今から身体のメンテナンスをしっかり行って、元気な不良老人になりたいものだ。
依頼を受けている事件の関係で、どうしても調べたい医学文献があった。
私が弁護士になった頃は、インターネットなどない時代だったので、医学文献を調べたい時には、京大医学部の図書館に行き、索引で調べたり、医学雑誌を片っ端から閲覧して、事件の参考になりそうな論文を探すという苦労をした。
今は、インターネットで検索すれば、調べたい本や雑誌が、どこの図書館にあるかがすぐわかるので、隔世の感がある。
目的の本が、京大医学部図書館にも京都府立医科大学図書館のどちらにもあることがわかったので、京都府立医科大学図書館の方に初めて行ってみた。
学外者は、身分証を見せて申し込めば、入館できる。
閲覧室は広くて明るく、自習机もたくさんあって、学生らしき人が何人も勉強していた。
目的の本はすぐに見つかり、必要箇所のコピーも自分でできた。
ほんと、便利な世の中になったもんだ。
9月4日。
正午前頃から午後4時頃まで、京都市内は、台風21号による激しい暴風雨にみまわれた。
事務所も4日は朝から臨時休業とした。
これまでは、台風が通過しても、京都市内は、盆地のせいだろうか、それほど風雨の強さを感じず、あっけなく過ぎ去っていったが、今回は違った。
翌5日の新聞によると、被害は、大阪や神戸ほどではなかったにしろ、嵐山の渡月橋の欄干が壊れたり、寺院の建物が倒壊するなど、各地で被害が続出していた。
5日、たまたま、京都駅に行く用があった。
台風により、4日午後2時25分ころ、京都駅中央改札口前に、高さ30m以上ある天井からガラスが落下するという事故が起こった。
3名の方がケガをされたとのことで、ぞっとする出来事であった。
この事故のため、5日は、中央コンコースへつながる通路はどこもシャッターが下ろされ、京都駅構内は非常に混雑していた。
現在の京都駅ビルは、1997年に建設された。
近代的な建物の中央部分は、巨大な空間になっており、天井や壁面が約4000枚ものガラスで覆われている。
当時は、古都京都の景観にそぐわないと反対運動も起こった。
異常気象が続く昨今、今一度、安全性を見直してもらいたい。
プラスチックによる海洋汚染が深刻な問題となっている。
世界で危機感が強まり、今年6月のG7先進7カ国会議では議題の1つとして取り上げられた。
プラスチックは、熱が加えられたり、太陽の光があたったりすると、もろく砕けやすくなるが、分解されてなくなることは決してない。
小さなプラスチックは、魚・貝などの海洋生物が餌と間違えて食べてしまい、それら生物体の中でプラスチックの有害物質が溶けだし、その魚をまた私たち人間が食べる
今年6月、タイ南部の運河で死んだ鯨を解剖したら、胃から80枚以上のプラスチック袋が出てきたそうである。
実に、恐ろしい話だ。
先日、プラスチックを使用しない生活をしてみようという実験をした人が書いた文を読んだ。
でも、スーパーで売られている商品は、野菜に至るまで、ことごとくプラスチックによって包装され、その実験はアッという間に頓挫したそうである。
私たちの周りには、プラスチック製品があふれている。
せいぜい私たちが出来ることと言えば、できるだけプラスチック製品を買わないこと。
例えば、安易にペットボトルを買わない。レジ袋はもらわない。冷凍食品・レトルト食品は買わない。
でも、1人1人の努力では、もう追いつかないところまで来ている。
ところが、G7サミットでは、日本とアメリカは、使用するプラスチック製品の具体的な削減量を盛り込んだ「海洋プラスチック憲章」を承認しなかった。
企業がプラスチックを作らない、使わないことが必要。
「すかいらーく」や「スターバックス」などは、プラ製ストローをやめて紙製にすると発表した。
企業努力だけに任せるのではなく、国が規制する法律を早急に作ることが何よりも求められている。
自分のこととして、プラスチック汚染に関心を持って行きたい。
私にとっての今年の夏山登山のメインイベントは、8月10日~13日の後立山(うしろたてやま)縦走だった。
五竜岳(2814M)~鹿島槍ヶ岳(2889M)~爺ケ岳(2670M)を山小屋3泊の4日間で歩いた。
五竜岳と鹿島槍ヶ岳は、日本百名山で、このコースは、約20年前に歩いたことがあった。
その時は、山小屋2泊という記録が残っていたので、今回も2泊で行けるかなあと淡い期待を持って出かけた。
8月の第1週は台風13号が日本に接近し、長野県に直撃することがないことはわかっていたが、その影響が心配だった。
五竜岳には、白馬八方スキー場からゴンドラに乗って上がり、八方尾根を登り唐松岳を経るコースと、白馬五竜スキー場からテレキャビンに乗って上がり、遠見尾根を登るコースがある。
以前は八方尾根を登ったので、今回は初めて遠見(とおみ)尾根を登ることにした。
8月10日、天候は曇り。
テレキャビンと展望リフトに乗って遠見尾根の登山口へ。
ガスがかかって、展望はなし。
小遠見、中遠見、大遠見、西遠見を経て、灌木帯の登山道に出る。
やっと北アルプスに来たという景色だ。
山には雪渓が残り、ガスで五竜岳は隠れて見えないが、五竜岳の直下にある五竜山荘は、時折、見え隠れする。
五竜山荘の手前の白岳に続く登山道。
この日は、五竜山荘まで。
8月11日
朝から霧雨で、レインウエアを着て雨用装備で、五竜岳に向かう。
小屋を出れば、すぐに五竜岳の登りとなる。
山頂に到着しても、風雨の中、何も見えず、写真だけ撮ってすぐに鹿島槍ヶ岳に向かう。
五竜岳からキレット小屋までは、いくつか岩場・鎖場・ザレ場・ガレ場の難所があり、しかも登山道の石や岩が雨に濡れて滑りやすくなっているので、より一層慎重に歩く。気が抜けない。
霧雨は、降ったり止んだり・・・相変わらず展望なし。
だが、口の沢のコルという鞍部に近づいた頃、ようやく雨が上がり、太陽が照ってきた。
口の沢のコルで、ゆっくり昼食を食べながら、濡れたレインウエアやスパッツなどを干して乾かす。
記録によると、約20年前は、1日約9時間程かけて、五竜山荘からキレット小屋を経て、鹿島槍ヶ岳に登り、その先の冷池(つべたいけ)山荘まで歩いたが、今は、歩き始めると、そんな体力がないことを自覚。
この日は、キレット小屋泊まりにすることにしたので、口の沢のコルでゆっくりと時間をつぶした。
そして、まもなく、キレット小屋に着いた。
キレット小屋は、鹿島槍ヶ岳北峰から約420m切れ落ちた鞍部にある。
そして、小屋の目の前(写真向かって右側の崖)には、日本三大キレットの1つ「八峰キレット」がある。
キレットとは、「切戸」と書き、山と山とをつなぐ尾根が鋭く切りたっている場所を言う。
「大キレット」「不帰キレット」「八峰キレット」を日本三大キレットと呼ぶ。
これまで日本三大キレットはどれも歩いたことがあるが、私にとっては、だから「怖くない」とか「慣れる」ということはない。
八峰キレットを下りてきた登山客が「今まで一番怖かった」などと話しているのを小耳にはさむと、明日のキレットの上りになんとなく不安を感じてしまう。
小屋は、お盆前の土曜日の割には空いており、割り当てられたブースには登山客は2組だけで、ゆったり眠ることができた。
8月12日
雨は上がったが、相変わらずガスがかかり、展望はあまりない。
小屋を出て、すぐに八峰キレットにとりつく。
いくつかの鎖場や岩場を気を引き締めて登る。
キレットが終わっても、鹿島槍ヶ岳北峰への長い急坂はまだまだ続く。
鹿島槍ヶ岳北峰、そして吊尾根を経て、鹿島槍ヶ岳山頂へ。
雨は降っていないが、あいかわらずガスで展望なし。
ここも写真を撮って、早々に下山する。
鹿島槍ヶ岳を超えると、登山道は、なだらかになる。
冷池山荘に到着。
冷池山荘で昼食をとった後、爺ケ岳を経て、今日の宿泊場所の種池山荘へ。
8月13日朝、種池山荘から扇沢まで下山する。
台風の影響か、ずっとガスがかかりっぱなしで、北アルプスの雄大な景色を堪能することはできなかった。
約20年前は、若さのせいか、五竜岳から鹿島槍ヶ岳への行程がこれほど厳しいものとは思わなかった。正直、疲れた。
帰宅すると、数日は足がパンパンに腫れて、歩くと足に痛みが残った。
足の痛みだけが、「北アルプスを歩いた!」という実感を与えてくれた。
なお、私が八峰キレットを登った同じ8月12日に、鹿島槍ヶ岳から八峰キレットへの下山中の女性の滑落事故があり、数日後、死亡が確認された。
やはり山は怖いとあらためて思った。
2018年8月8日、テレビのテロップで、沖縄県の翁長雄志(おながたけし)知事の突然の訃報が報じられた。
5月に自身が膵臓癌であることを公表し、それでも知事としての公務を続け、7月には、辺野古埋め立て承認撤回を表明した。
テレビに映ったその時の姿は、それまでのように毅然とされてはいたものの、ひどく痩せて痛々しいものを感じた。
翁長氏は、自民党沖縄県連幹事長を務めるなど、もともとは保守であった。
ただ、幼少より、基地をめぐる県民の対立に疑問を持ち続けていたという。
自民党の那覇市議、沖縄県議を経て、2000年12月から2014年10月まで那覇市長を務める。
転機となったのは、旧日本軍による集団自決の強制を否定した教科書検定問題。2007年9月、保守も革新も一丸となった県民大会が開かれ、翁長氏は反対運動の先頭に立った。
そして、2014年11月、「辺野古基地ノー」の圧倒的な民意に寄り添う決断を下し、約10万票の大差で圧勝し、史上初の「オール沖縄」県政が成立した。
2014年12月10日知事就任式の時の言葉。
「戦後、自分が持ってきたわけでもない基地をはさんで保守だ、革新だと県民同士がいがみあってきた。基地問題を解決しないと、沖縄が21世紀に向かってしっかり羽ばたけない。これが私の思いだ」
それ以降は、安倍政権に一歩も引かず、あらゆる権限を行使して闘い続けてきた。
そして、それは自身が重篤な病にむしばまれても続けられた。
本当に命をかけて民意を貫いた政治家だった。
翁長氏のような人こそ、沖縄の歴史に残る本物の政治家だと思う。
以前、新聞に掲載された書評を読み、その切り抜きを大切に保管して「読んでみたい」と思っていた1冊をやっと手に取った。
終末期医療のあり方を問う、現役医師によるデビュー作の小説。
2016年9月に単行本が出版されたが、本の帯によると、2018年6月21日放送の「NHKラジオ深夜便」に著者が出演したことによって、緊急文庫化されたようだ。
主人公は、大学病院から地域の訪問クリニックへ異動になった医師水戸倫子。
左遷、いや、それ以下だと落ち込む倫子。
クリニックは、在宅で最期の時を迎える患者を診ているが、大学病院では病気を治すこと、命を救うことが医師の使命としか考えてこなかった倫子は、「治療法のない患者に、医師は何ができるのか」と医師の存在価値について悩む。
第1話から第5話の短編連作の中で、何人かの終末期の患者とその死に関わり、徐々に、クリニックの医師としてのスキルを高め学び、成長していく姿を描く。
そして、第6話「サイレント・ブレス」では、倫子自身が父親を看取ることになる・・・
脇を固める登場人物たちも少しコミカルで、茶髪でピアスの男性看護師コースケ、クリニックのスタッフが常連として通う「ケイズ・キッチン」のニューーハーフ店主ケイちゃんが作る珍妙な料理などが、深刻なテーマを和らげてくれる。
そして、倫子を「左遷」した直属の上司大河内教授が、ずっと倫子を見守り、医師の終末期医療への関わりを語り助言する。
倫子は、苦しみに耐える延命よりも、心地よさを優先する医療もある、と知った。
穏やかで安らぎに満ちた、いわばサイレント・ブレスを守る医療が求められている、と。
深く胸にしみこむ1冊となった。
折しも、京都での地域医療のパイオニアであった医師早川一光さんが亡くなられたばかりで、ずっと地域医療に取り組んで来られた早川医師の姿に重なるものもあった。
「人は誰しも死んでいく」
わかりきったことだし、実際に両親を見送っているのに、私自身は、まだ、自分がどんな終末期を迎えるか、はっきり決めることができないでいる。
ただ、人との関わりを大切にして、自分の一生を終えたいとだけは心から思う。
オススメの1冊である。