4月26日、朝、事務所に来ると、「Sさん」という人からの電話メモがあった。
「Sさん」という姓の友達も依頼者もいないので、誰だろう?と思った。
そして、その日の夕方、再度、Sさんから電話があり、そのSさんが私の岐阜の実家の3軒隣の家に住んでいた女の子「shoco」さんで、Sというのは婚姻姓であることが判明した。
当時、私も彼女も同い年の「女の子」だったが、今では、もちろん二人とも「熟女」である。
私たちは、中学1年の時に、その団地に引っ越してきたが、彼女は地元の中学に通っていなかったので、近所だったが、話したことはなかった。
高校も違っていたが、共にバス通学するようになり、同じバスに乗ることもあって、次第に言葉を交わすようになった。
でも、二人の関係はそれだけで、一緒にどこかに遊びに行ったこともなく、大学に進学すると、会うこともなくなり、私たちの時間は高校生の時で止まったままだった。
そのshocoさんがわざわざ電話をくれた。本当に驚きだったが、とても嬉しかった。
shocoさんが、どうやって私にたどりついたのか。
偶然、インターネットで私のブログを見つけたということだった。
インターネットの中の情報量は本当に膨大で恐ろしいといつも思うが、インターネットがなければ、おそらくshocoさんとの再会はなかったと思う。
shocoさんは、ずっと以前からブログを書いていて、そこには私の知らないshocoさんの人生がたくさんあった。高校の時よりも身近に感じられた。
こんな出会いも、いいもんだな。
ブログ マチベンの日々
今日は、快晴で、やっと5月の初夏らしい気候となった。御所1周4キロのランニングの途中、汗をかきながら、ちょっと寄り道。
「若冲水墨画の世界」を見に、御所の北側にある相国寺・承天閣美術館へ。
京都に住んでもう35年以上になるが、実は、相国寺を訪れたのは初めてで、しかもここに美術館があることなど全く知らなかった。もちろん伊藤若冲(じゃくちゅう)という江戸時代の絵師のことも。
実は、4月末に突然電話をくれた幼なじみのshocoさんのブログに紹介されており、5月10日で若冲の特別展は終了することを知り、急遽、行くことにした。
水墨画にはほど遠いが、昨年少しだけ「墨絵」というものを習った。もともと絵を描くことは好きだったので、「墨絵」も簡単に描けるものと思っていたが、これが大きな間違いだった。「墨」1つで濃淡を出し、様々な線や面を描く。思い通りの絵が描けず、悪戦苦闘し、挫折。
だから、若冲の水墨画が無性に見たかった。
素晴らしかった。特に、若冲が実際に何十羽の鶏を飼って観察して描いたという何枚もの「鶏の絵」に心打たれた。迷いのないのびやかな強い濃い線、産毛のような柔らかい薄いが濃淡のある線、そして鶏の動きと表情・・・
静かな時間が流れたひとときだった。
5月5日は、北八ヶ岳に登った。
天気は午前は雲りだが、午後から次第に晴れてくるとの予報。でも寒い。
安直に、ピラタス蓼科ロープウェイに乗って着いた山頂駅は2233M。
GWの観光客で一杯かと思いきや、一般観光客はまばら。
なるほど山頂駅周辺の坪庭は一面の雪。
ロープウェイのおっちゃんから「今年は10日程、季節が遅い」「一昨日も新雪が降った」と言われた。
まずは、横岳(2480M)をめざす。
登山道はもちろん雪道。
雪道だとは予想せず、アイゼンを持って来なかったため、滑らないよう慎重に歩を進める。
急な登りは、つま先を思い切り雪に食い込ませるようにして歩く。
約1時間で山頂へ。
横岳山頂は、風が強く、一層寒い。
雲のせいか、黄砂のせいか、遠くは霞んでいる。早々に下山する。
下山は、滑らないよう、今度は、かかとを雪に食い込ませながら歩く。
坪庭を横切り、縞枯山(2403M)へ。
この山は、縞のように木が枯れている山である。
分岐の河原で弁当を食べた後は、やはり雪道の登り。
足のつま先を雪に食い込ませながら歩くのは、結構疲れる。
何度も立ち止まって呼吸をととのえながら登る。
縞枯山山頂に着いた頃には、天気も徐々に晴れてきた。
縞枯山山頂を経て、また雪道を下って、登り返し、茶臼山(2384M)に到着。
ここからの展望は絶景。
雪がまだ残る南八ヶ岳の山々や八ヶ岳山麓の景色が見事。岩場で風を避けながらコーヒーを沸かして飲み、ほっこりする。
あとは、来た道を戻ってロープウェイ乗場へ。
今回は、アイゼンなしの雪道歩きだったため、足に力が入り、結構、足がくたびれた。
いつか八ヶ岳連峰を、北から南へ(あるいは南から北へ)縦走してみたい。
京都弁護士会は、4月29日から5月1日まで、東日本大震災の被災者の法律相談のため、宮城県に若手弁護士中心に6人の弁護士を派遣した。(ご苦労様です。よろしくお願いします。)
その記事が、4月29日朝日新聞朝刊の京都版に掲載され、そこに私のコメントも載った。
4月28日に朝日新聞の玉置記者クンの取材を受けた。
阪神大震災の時に、実際に現地で相談にあたった京都の弁護士にインタビューをしたいが、なかなか見つからなかったと言っていた。
「私が神戸に行ったのは、1回だけなので、あまり具体的な話はできないよ」と言うと、それでもかまわないということで取材に応じた。
取材を受けるということで当時のことを調べたら、私が神戸に訪れた1995年2月12日は、JRが住吉駅まで復旧しており、そこから歩いて神戸の中心部に入ったことがわかった。
神戸に近づくにつれ、大阪や神戸の住宅の屋根にはほとんどブルーのビニールシートがかけられ、また、神戸市中心街のビルは恐ろしく破壊されていたことが強く記憶に残っている。
でも、今回、東北に行って来た人の話を聞くと、津波にやられた跡は、まるで戦争直後のような惨状だったと。
想像を絶する。心が痛む。
なお、掲載された私のコメントは次のとおり。
「被災地では現状の法律で対応できない問題も多い。救済のための法整備を国に働きかけていくことも必要だ」。
4月28日夜は、安斎育郎立命館大学名誉教授の「福島原発と放射能災害」の講演会に参加した。
「1+1=2」であることは、政府が語っても、原発を推進してきた御用学者が語っても、原子力安全保安院のメンバーが語っても真実なんだろうけど、今は、政府や御用学者たちの言葉は信じられない。
だから、東京大学工学部原子力工学科1期生の中でただ一人、一貫して原発に反対してきた安斎先生の話が聞きたかった。
京都で安斎先生と言えば、その放射能防護学の専門よりも、憲法や平和問題、オカルト批判、あるいは手品の先生として有名である。
でも、3月12日以降は、再び「ものを言う放射線防護学者」としてマスコミに注目され、多忙な毎日を送られている。
メディアはあまり報道していないが、実は3月30日、原子力安全委員会委員長、日本原子力学会会長などを経験した16人が、政府に対し「福島原発についての緊急建言」を提出している。
その冒頭には「はじめに、原子力の平和利用を先頭だって進めてきた者として、今回の事故を極めて遺憾に思うと同時に国民に深く陳謝します」とあり、「福島原発は極めて深刻な状況にある」「既に国家的な事件というべき事態に直面している」と述べられている。
安斎先生も「毎朝、起きてニュースを観るのが怖い」と言われるほど、福島原発はこの瞬間も終わりの見えない危険な状態が続いている。
でも、私たちは、起こってしまった事故を悔やんでいても仕方ない。その原因を断ち、被害を最小限に食い止め、そして国民全体で今後のエネルギー政策のあり方を考えていかなければならない。それが、将来の日本に対する私たちの責務だと思う。
身近な所に安斎先生のような頼もしい学者がおられるので、その力も借りて運動を作っていかなければならないと思った。
なお、安斎先生が5月13日に、かもがわ出版から出される著書「福島原発事故 どうする日本の原発政策」はわかりやすく、お薦めです。
前年度までの3年間は、長岡京市女性交流支援センターの法律相談を担当していたが、今年度からは京田辺市の女性交流ルームの法律相談の担当となった。
昨日は第1回相談日。
京田辺市の女性交流ルームは、大型スーパーの2階に設置されている。
相談開始までに時間がずいぶんあったので、そのスーパー内をすみからすみまで巡り、特売の食料品を買い込み、相談開始30分前に交流ルームに行った。
初めて会った担当職員の女性に「こんにちわ。少し早く来てしまって・・・」と挨拶すると、「あの~、相談時間までまだ30分あるので、待合室で待っててもらえますか・・・」と。
「いえ、すいません。私、弁護士なんですけど・・・」
「あっ、失礼しました。どうも相談者の方にしては元気な方だなと思いました(どういう意味?)。」
そして「前年度の弁護士さんもリュック背負って来られて、わからなかったです」などと必死でフォローされていた。
昨日は、一応スーツを着ては行ったのだが、あまりの暑さに、その時点ではスーツの上着は脱ぎ、食料品の入ったエコバッグ(スーパーの袋ではない)を抱えてたのだから、どう見ても「買い物帰りのオバサン相談者」だったかもしれない。
弁護士になった頃は、女性弁護士がまだ少ない時代だったので、離婚訴訟で法廷に行くと、裁判官から離婚の当事者と間違われたこともあった。
私は、日頃、あまり「弁護士」と見られたくないので、弁護士バッジは基本的にはつけない。
そう言えば、警察で接見した帰りに乗ったタクシーの運転手さんからも「交通関係で行って来たの?」と話しかけられ、「私、弁護士なんですけど・・・」と会話したこともあったっけ。
どこから見ても、普通のオバサンです。
先の見えない不況の中で起こった東日本大震災。自分たちの日々の生活も決して楽でないにもかかわらず、全国各地から多額の義援金が寄せられている。
そして、ここでも・・・・刑務所。驚いた。
京都刑務所では、約300人から230万円が、そして全国の刑務所では、約2800人から合計2156万円の義援金が寄せられている。
テレビ報道で震災のことを知った受刑者らは、自分の所持金や刑務所内での微々たる作業報酬金の中から、義援金を出しているとのこと。
受刑者の中には、人の命を奪ったり、身体を傷つけたりした人もおり、それらは決して金で償えるわけではない。
でも、拘束された生活の中でも、被災者に思いを寄せる気持ちを「義援金」という形にしていることは、本当に素晴らしいことだと思う。
他方、これまで原発に賛成し、電力会社から多額の政治献金を受けてきた歴代の自民党の国会議員らは、今、何を考え、どんな行動をしているのだろうか。
この落差が腹立たしい。
元キャンディーズのスーちゃんこと田中好子さんが4月21日乳ガンで亡くなった。
55歳。
私と同世代でもあり、女優としての演技も油がのってきた矢先の突然の訃報だった。本当に驚いた。
そのスーちゃんが3月29日に病室で録音した最後の「肉声」が4月25日の葬儀で流され、その3分20秒の「肉声」がテレビで報じられるたびに涙が出た。
「もしかしたら(病気に)負けてしまうかもしれない」と自分の死を覚悟しながら、なおも東日本大震災で「被災された皆さまのことを思うと、心が破裂するように痛み」と他者を気遣い、「幸せな、幸せな人生でした。心の底から感謝しています。」などと感謝の気持ちを表すなど、本当に強い意思を持っていた女性だと思った。
私は、両親を二人ともガンで亡くした。
その最期をみているので、おそらく自分であれば、ガンによる痛みや苦しみ、死への恐怖から、とうてい他人のことを思いやること、感謝することなどできないだろうと今は思う。
スーちゃんの逝き方は私の理想でもある。
ご冥福を心からお祈りします。
昨日の雨も上がったので、今朝は、先週と同じく午前7時半に自宅を出発し、比叡山に向かった。
叡山電車の修学院駅で下車し、そこから雲母坂(きららざか)の登山口まで歩く。登山口からは急坂をどんどん登って行く。
今日は快調!
ケーブル比叡駅に到着すると、風が吹き始め、寒い。
トイレ休憩だけで、先に進む。
旧人工スキー場を通り、延暦寺の境内脇や比叡山ドライブウェイ沿いの京都トレイルの登山道を進む。
寒い上に、おなかが減って歩が重くなる。
やっと玉体杉に到着。
ここでやっとコーヒーを沸かし、ロールパンを2個食べる。生き帰った・・・
元気も回復し、そこから横高山登山口を目指し、一気に下る。
地下鉄国際会館駅近くの「グリルじゅんさい」で昼食を取る。
雨が降り出し、雷まで鳴り始めた。
あと少し下山が遅くなったら、雨の中を歩かねばならないところだった。
良かった。
午後1時半帰宅。
そして午後2時から4時までお昼寝。
春の花を期待して行ったが、山桜は散り、つつじはまだ咲き始めで、春の野の花も未だ顔を見せていなかった。
比叡山の花はこれからだ。
昨夜は、今年3月で龍谷大学を退官された萬井隆令(よろいたかよし)教授(労働法)の退職記念講演会があった。
萬井先生には、男女雇用機会均等法や労働者派遣法、パート労働法が法案化され、国会で審議される過程の中で、学習会や講演会の講師として、何度となく来ていただいた。
また、JRの採用差別事件や大阪の偽装請負事件などでは、裁判所に対し、学者としての鑑定意見書を提出もされており、単なる机の上の理論でなく、労働現場の実態にかみ合った理論を提供されていた。
「研究者は、社会の進歩に役立つ理論を創り出し、世に問いかけることが仕事」「論文は、一般の労働者の心を動かすような内容を書く」などを座右の銘とし実践されてきたことには頭が下がる。
昨夜は、カラーシャツにパリッとスーツを着こなし、とてもダンディで若々しかった。
ご自身でも「まだまだ余力がある」と言われたので、是非、今後とも、労働裁判などでその力をお借りしたい。
私の朝食がトーストであることは、2011年2月4日付けのブログで紹介した。
トーストに塗るものと言うと、バター、マーガリン、ジャムなど人それぞれ好みがあるだろう。
バターが好きだが、カロリーが高いかなあ~なんて思い、マスカルポーネというチーズを塗っていたが、最近、それ以外に、「クロテッドクリーム」を愛用している。
クロテッドクリームは、イギリスの乳製品で、バターと生クリームとの中間位の乳脂肪分。イギリスではアフタヌーンテイーの時にスコーンやクラッカーなどにつけて食べるらしい。
冷蔵庫に保管しても柔らかく、味もバターと生クリームの中間のような味。
日本では、中沢乳業が「中沢クロテッド」という製品を販売している。
デパートの乳製品売り場ではたいてい販売されている。
今日から京都弁護士会でも、東日本大震災の被災者を対象に、無料電話相談が始まった。
とりあえず5月31日まで。
月曜から金曜まで(祝日除く)の午後1時~午後3時30分。
申込専用電話:0120-80-8585
上記フリーダイヤルに電話をすれば、弁護士が折り返し相談希望者に電話をかけるというシステム。
息長く続けることが大切だと思う。
昨日の雨は早く上がったが、今朝はどんよりとした曇り。午後から晴れ予報だったが、午後は法律相談が入っていたので、昼までに戻って来ようと、朝、7時20分に出発し、今年初めての山歩きに出かけた。
丸太町通りを東に向かって歩き「哲学の道」へ。桜は散りかけていたが、それはそれで美しい眺めだった。
銀閣寺裏の登山口から大文字山へ。「大」の字から見る京都の街はモヤがかかっていた。
そしてそれから更に大文字山頂上へ(466M)。頂上でコーヒータイム。何人もの登山者が登ってくる。
頂上からは、東山の蹴上(けあげ)へ向かう。みつばつつじが満開に咲いて登山道を飾っていた。途中、小雨が降り出し、風もきつくなったが、雨はすぐに止んだ。
蹴上に到着し、インクラインを歩く。桜はもうほとんど葉桜。
天気は徐々に晴れに向かい、蹴上からは疎水沿いの桜並木を歩き、自宅へ戻った。
ずっと歩き続けた。今年初めての山歩きとしては、まずまずかな・・・
2011年4月15日付け京都新聞朝刊。
大垣書店は、地方書店でつくる団体「書店新風会」のキャンペーン「被災地の子どもたちに『本』を送ろう」に連動し、家庭にある本を募っている。
被災地では、図書館の本が読めなくなったり、書店に品が届かない状況が続いている。そんな子どもたちに本を送ろうと、全国の25店舗の書店で4月30日まで受け付けている。
京都は大垣書店。
対象は、児童書と絵本、コミック、文庫本。
私も是非、協力したい。
昨夜は、4月18日から京都弁護士会でも始まる「東日本大震災被災者電話無料相談」の研修会が行われた。
3月23日に東京で行われた研修会のDVDを視聴するという研修だったが、講師が阪神淡路大震災の時から法律相談や復興に向けての支援にあたってきた兵庫県の弁護士であったため、何がポイントかがとてもわかりやすく解説された内容だった。
講師が話されたのは、相談内容は多岐にわたるため、弁護士だって知らないことは一杯あるが、相談者の気持ちに寄り添い、訴えの中身を親身になって聞くことが大切。
被災者の実情が、法律改正や新たな制度の創設につながることもある。
また安易に「不可抗力」「天災」「想定外」などとは言わない。
そして我々弁護士は、「疲れない」「忘れない」こと。息長く支援を続けていくことの大切さが強調された。
昨日も今日も暖かくて良い天気。京都の桜もほぼ満開。
ところで、京都市内の桜の穴場。
それは京都地裁。
京都家裁の紅葉も穴場だが、春は地裁。
京都地裁の敷地の外周の東側、南側、西側には、しだれ桜が道路沿いにずっと植えられてあり(要するに、丸太町通りに面している北側以外の三方に植えられている)、それが、現在は、7分咲きくらい。満開となれば、しだれ桜の濃いピンクが鮮やかでとても美しい。
ただし、このしだれ桜の下で花見の宴は、ちょっと無理ね。
朝、雨が上がったので、今年2回目(!!)のランニングへ(あ~あ、運動不足)。
今日は、満開になった桜を愛でながら走ろうと思い、まずは御所へ。
御所は、桃もまだ鮮やかに咲き、桜はしだれも満開に近かった。
その後、桜並木と並行して賀茂川の土手を走り、疎水の桜(ここももう満開に近い)を確認し、最後は高瀬川へ。
朝はまだ薄曇りだったが、午後から明日にかけては、青空に桜ももっと映えるだろう。
別に昨日の私のブログが読まれたからではないと思うが、今日、京都弁護士会から、「大至急」というFAXが全会員に入った。
京都弁護士会でも、東日本大震災に関し災害対策本部が発足し、被災者を対象に、4月18日から差し当たり5月末までを目途に電話による無料相談が実施されることが決まり、その相談員を募集するというもの。
もちろん相談員として登録する。微力ながら役に立てればと思う。
2011年4月7日付け読売新聞朝刊。
岩手県弁護士会が、大阪空港から同県内への航空便があって被災地入りしやすい大阪弁護士会と兵庫県弁護士会に応援を要請。
両弁護士会は今月分の要員として20人ずつを確保し、11日から順次、交代で岩手県に送り出す予定。現地では、地元の弁護士らに加えた4人1組で避難所などを巡り相談に乗る。
既に両弁護士会では、会内での無料相談も始まっている。
1995年の阪神大震災の時、兵庫県弁護士会が受け付けた相談は5万件を超えた。今回は、被害が広域であるが故にもっと相談件数は増えるだろう。
その意味で、全国の弁護士の法的サポートは不可欠。
京都弁護士会はどうするのかな・・・
常磐炭坑(福島県いわき市)が衰退する中での町の復興を描いた映画「フラガール」をご覧になった方も多いと思う。
そのモデルとなった、いわき市の「スパリゾートハワイアンズ」に私が行ったのは2007年夏だった(詳しくは、右欄「過去の記事」No16参照)。平日であったにもかかわらず、たくさんの客が入り、フラガールたちによるダンスを楽しんだ。
地震、津波、原発の三重苦をまともに受け、今、フラガールたちはどうしているだろう。
報道によると、スパリゾート施設も大きな被害を受け、また原発事故により、再開の見通しは立っていないよう。
1966年にフラガールたちが町の復興に立ち上がった時に開業宣伝のため全国巡業をした経緯は映画にも描かれている。そして、今、再び、フラガールたちが復興の象徴になるということで、全国巡業を行うという。
是非、京都にも来てもらい、応援したい。
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