ピュアホワイト(真珠コーン)、本当に真珠が並んでいるかような、白いとうもろこし。
今夏、テレビで、何度も「ピュアホワイト(真珠コーン)」の話題が取り上げられていたので、一度、食べてみたいと思っていた。でも、「お取り寄せ」するほど、とうもろこしが好きなわけではないので、「いつか」という気持ちだった。
先日、たまたまデパ地下で売っていたので、1本買ってみた。1本280円。普通のとうもろこしの倍くらいの値段である。
生でも食べられるということだったので、まず、数粒を生で食べてみる。確かに、甘い。でも、これを全部を生で食べるのは、ちょっと・・・という感じ。
茹でてみる。茹で方が下手だが、やはり、生より茹でた方が格段に甘くておいしい。1本は、アッという間に食べてしまった。
北海道や青森の産地で取れたてを食べてみたい。
ブログ マチベンの日々
財界人の中にも、戦争は二度と繰り返してはならないとの思いから、自らの戦争体験を語り、憲法9条を守れと、積極的に発言、活動されている人がいる。(2011年9月13日付け毎日新聞朝刊)。
品川正治さん。87歳。
日本火災海上保険(現、日本興亜損保)の社長、会長を経て相談役。現在は、経済同友会終身幹事。
全国の「9条の会」などで講演されているが、自分の戦争体験を細かく話せるようになったのは、ここ数年という。それは、「品川、助けてくれ!品川、品川・・・」と連呼して戦死した戦友のことが大きなトラウマになっていたから。2008年、松江の講演会で、その戦友の村の人たちに手をついて謝り、皆も泣きながら話を聞いてくれたことにより、そのトラウマは消えた。
品川さんの息子は、12年前、49歳で癌のため死亡。当時、小6の1人娘が残された。ノート10冊分の遺書が品川さんに託され、「娘の誕生日ごとに1冊ずつ渡してほしい」と書いてあった。そして17歳のノートには「もうあなたは戦争のことを知らないとけない。おじいさんに戦争の話を聞きなさい」と書いてあった。
息子は父の考え方、行動をしっかり見ていた。
品川さんの結びの言葉。「東日本大震災が起きました。日本は大きな岐路に立っています。まだまだ考えなければならない。声を上げていかなければならない。老いるのは、もう少し待ってもらいましょう」
品川さんからすれば、私なんて、まだまだひよっこ。「しんどい」なんて言っていられないな。
9月10-11日、司法研修所を1982年3月に修了した第34期生の30周年大会が伊東で開催された。
最近は毎年約2000人が司法試験に合格するが、当時の合格者数は年約500人。その500人が10クラスに分けられ、2年間の司法修習の間、合格した翌年の4月から7月まで(前期)と翌々年の12月から3月まで(後期)、東京の湯島にあった司法研修所で研修を受けた。前期修習と後期修習の間の期間は、各都道府県に分かれ、実務修習が行われた。
この日、伊東に集まったのは、約250人余。
記念式典と全体懇親会は、同期の千葉景子元法務大臣の司会で始まった。久しぶりに会う人や研修所卒業以来初めて顔を会わせた人など、髪の色や体格も30年前と比べるとずいぶん変貌をとげ、同一性が不明な人もいた。
全体懇親会が終わると、クラス毎に分かれてのクラス別懇親会。私たちのクラスは、50名中30名余が出席し、10クラスの中で最も出席数が高かった。過去ブログでも書いたことがあるが(2009年9月28日)、同じクラスだった谷垣自民党総裁は、当初出席予定だったそうだが、和歌山県の被災地視察ということで、残念ながらキャンセル。
弁護士仲間とは、折にふれ、会合などで会う機会もあるが、裁判官や検察官になった同期生とは、このような場所でもなければなかなか親しく懇談する機会はない。事実認定の仕方や書面の書き方など、なかなか参考になる話を聞くことができた。(もちろん、仕事の話だけでなく、オフレコの話も盛り沢山!?)
次は5年後に35周年。皆そろそろ健康の方も心配になってくる年代。5年後も元気で集いたいものである。
この前、髪を切ったのは、いつだっただろう。半年前?いやいや、今年に入ってからは切ってないなあ。(これだから、おしゃれに関心がない者は困る。)
髪は、いつも、草取りのために岐阜の実家に帰省した折り、私の中学生の頃から髪を切ってもらっていた美容院に行き、切ってもらっていた。でも、最近は、日帰りで草取りに行くことが多く、美容院に寄る時間がなかった。
そのため、髪の毛はどんどん伸びて、久しぶりにロングヘアーでこの夏の猛暑を迎えた。よほど京都のどこかの美容院に切りに行こうかと思ったこともあったが、長い髪をアップにしていた方が2~3度は涼しいということを知り、夏中、アップの髪型で過ごした。
最近ようやく涼しくなってきたので、昨日、髪を切りに行った。
古川弁護士が紹介してくれた店で、事務所から近くて便利。
「HAIR CONTI」(ヘア コンティ)さん。車屋町丸太町下る。
1人でされているが、他に誰もいない気楽さで、マラソンの話や(私が)アナログ人間なことの話などで盛り上がった。
ブローの仕方も色々アドバイスを受けた。いつも髪を切った直後は、「頑張ってブローしよっ」と思うのだが、根がズボラな私はなかなか続かない。
頑張ろ!
9月2日、台風の中、事務所の日帰り旅行で佐川美術館を訪れた。私自身は2度目である。
佐川美術館は、滋賀県守山市にあって、佐川急便の創立40周年を記念して建設されたらしい。美術館は広大な水庭(人口池)の中に浮かぶように建てられており、建造物そのものもとても素晴らしい。
美術館には、日本を代表する画家平山郁夫と、同じく彫刻家佐藤忠良(ちゅうりょう)の作品が中心に展示されている。
ここに初めて訪れた時にこの佐藤忠良の彫刻に初めて触れ、これまであまり彫刻には興味がなかった私だったが、とても魅了された。
佐藤忠良は、今年3月30日に98歳で亡くなられたが、その作品の女性たちは実にのびやかで生き生きとして美しい。しかもモダンである。
実は、彼は、女優佐藤オリエの父親だということを後で知った。「佐藤オリエ」と言っても、残念ながら、うちの事務所の若い弁護士や事務局には全く通じなかったが、彼女が出演した映画「若者たち」は私たちの青春だった。
1時間では、全部をゆっくり見ることができなかった。
また、いつか来てみたい。
その後、昼食は、大津市内で近江牛を堪能した。台風のため、予定されていた遊覧船ミシガンに乗っての琵琶湖クルーズは中止となったが、楽しい事務所旅行だった。
8月30日の「おわら風の盆」前夜祭は福島地区。JR越中八尾駅周辺の地域であった。
午後8時すぎ、男性の踊り手を先頭に「町流し」が始まった。観光客が道の両脇にひしめきあい、先頭からは、胡弓などの音色すらよく聞こえなかったが、本当に静かに踊りながら進んでくる。これが「おわら風の盆」なんや。でも観光客の喧噪だけがやけにうるさい。
踊りながら200メートル位進むと、踊り手らは止まり、今度は、大きな輪になって、豊年踊りが始まった。
ところが、これがいただけなかった。
輪になって、地区の踊り手だけで豊年踊りを披露してくれるものと期待していたところ、輪になって以降は、すぐに観光客もその輪の中で一緒に踊ることができるようになった。おそらく地区の踊り手よりもたくさんの客が踊り始めたものだから、もうそこからは「哀愁」も「妖艶」もすべてがふっとんでしまった。
興冷めして、宿に戻る送迎バスの時間もあったので、早々に立ち去った。
内田康夫は小説「風の盆幻想」の中で、次のように書いている。
「この盛況は必ずしも喜ばしいものであるとばかりいえない。小説やドラマでは、夜更けて静謐な気配の漂う町の中、すすり泣くような胡弓と、哀切きわまる唄に誘われるように踊る『おわら』が、しずしずと練り回る町流しの情景を描いていて、それこそが『おわら』本来の魅力なのだが、いまやまったくかけ離れたものになってしまった」「狭い道路を埋め尽くす人波と、ムンムンする熱気の中、時折通過する『おわら』の群舞を、大群衆が取り囲むように見物しながら、押しあいへしあいして歩く、といった有り様で、情緒もムードもあったものではない」
かくいう私もその大群衆の1人であった。「哀愁」や「妖艶」は、今や映像の中でしか、得られないのだろうか・・・・
哀愁があって、しかも妖艶・・・・毎年9月1~3日に行われる富山県八尾の「おわら風の盆」は、このような表現で紹介されている。
盆踊りなのに、哀愁?妖艶?
私は全く想像ができなかった。しかも亡母は、生前、民謡(踊り)を習っていたが、「妖艶」とはほど遠いその母が風の盆に行き踊ってきたと聞いたことがあった。私の頭は、ますます混乱した。だから、是非1度その「風の盆」を見てみたいとずっと思っていた。
とは言うものの、本番の3日間は八尾の人口約2万人の10倍以上の観光客が押し寄せる。宿など取れるはずもない。
そんな折り、あの名探偵浅見光彦が主人公の小説「風の盆幻想」(内田康夫著)を読み、どうも「風の盆」には8月20日から30日まで「前夜祭」というものがあるらしいことを知った。
そして、今年8月30日、幸運にも宿が取れたので、やっとその前夜祭に行ってきた。
前夜祭というのは、八尾の中の各町が日替わりで踊りを披露するもので、おそらく規模も雰囲気も本番とは格段に異なるだろうが、私の疑問はずいぶん解消された。
8月30日は福島という地区の担当日だったが、それが始まる前、観光会館で、「おわら」の解説やステージ上での数人の男女の実演があった。「男踊り」「女踊り」「豊年踊り」が披露された。
「すすり泣くような胡弓の音色に乗せた哀切感漂う唄と踊り」と表現される意味が少しだけ理解できたような気がした。これは、盆踊りでなく、日本舞踊なのだ。とりわけ女性の手や腰のしなやかな動きは、美しく、まさに妖艶だった。
その後、観光会館から福島地区へ移動。さあ、これから本物が見られる!
年を重ねていくと、子どもの頃に仲良くしていた幼馴染みが、今、どうしているのだろうかと無性に懐かしく思うことがある。
もう両親がいないので正確ではないが、私が3歳の頃まで、両親が間借りしていたお宅があった。
岐阜市の岐阜公園の近くの旧家だった。
その家主さんの所にも、私より1歳年上のN子ちゃんという娘さんがおり、私が朝早くからN子ちゃんの所に遊びに行くものだがら迷惑をかけ転居したという、本当か冗談かわからないような話を母から聞かされたことがあった。
当時の記憶は全くないが、3歳と4歳頃の2人の写真が数枚アルバムに残っている。
その後、小学生の時に住んでいた私の家に、N子ちゃんとその弟が遊びに来たことがあったが、なぜか中学生からは行き来がなくなり、現在に至っている。
最近になってN子ちゃんのことをたびたび思い出すようになったので、この夏、実家の草取りに帰省した折り、思い切ってN子ちゃんの実家を訪ねてみた。
幸運にも、実家には弟さん一家が住んでおられ、突然訪れた私が事情を説明すると、N子ちゃんの連絡先を教えていただけた。
今は関東に住むN子ちゃんにすぐに手紙を書き、返事が来るかどうか不安だったが、先週、返事が届き、約40年ぶりに私とN子ちゃんとはつながった。
再会が楽しみ!
三角点というのを御存知だろうか。
山に登ると、山頂付近にコンクリート製の四角い棒が埋められているのを目にすることがある。よく見ると、「三角点」と彫られている。
三角点とは、三角測量を行う時に地表に埋められた基準点のことを言う。ちなみに、あの映画「剱岳 点の記」の「点の記」とは、この三角点設定の記録のことである。
登山愛好家の中には、三角点のある山を専ら登る「三角点ハンター」と呼ばれる人たちもいる。私の山仲間のA弁護士も三角点好きである。
ところで、今朝のNHKニュースで、東日本大震災によって、東北地方の三角点の位置がずれたため、そのチェックを始めているという報道があった。
地震によって、海岸線だけでなく、山の頂上の位置も動いたのだ。
東北地方には、三角点が約16000あるらしい。これを全部チェックするんだろうか。いずれにしても、ここでも大変な作業が進行している。
京都市内の中学校教師が平成11年に脳出血で倒れたことは過労による公務災害だとして、現在、大阪高裁で争っている事件がある。
この事件では、高裁段階で、山形県の脳神経外科の専門医S医師に鑑定意見書を書いてもらったが、今般、また補足的に意見を伺う必要があったため、急遽、昨日、山形県米沢市まで赴いた。
新幹線は、福島駅で、東北新幹線と山形新幹線とに分かれる。郡山辺りから、屋根瓦の一部に青いビニールシートをかけて応急措置か補修を施していると思われる民家が所々見られた。
前に病院を訪れた時は、震災前だったが、病院の様子は震災前と変わりないように思われた。
S医師とは1時間ほど面談して意見を伺い、その後、震災後の病院の様子を尋ねた。「福島が近いので、そこからたくさんの患者さんが来られています」とのこと。
帰りの山形新幹線は、自由席140%という超満員状態。もちろん指定席は取れない。混雑を避け、グリーン車側のデッキに立ちながら東京駅まで。
1日がアッと言う間に過ぎた日帰り出張だった。
NHK・Eテレ(「教育テレビ」って言わないんだ)午後10時からの「ホビー・山ガール」という番組。
今夜のテーマは、「疲れない歩き方のコツ」。
①腰を前に出しながら登る。
②小股で歩く。
③前かがみにならない。上体は立てる。
あとは、ゆっくり歩くこと。
私のこれまでの経験からも、これらは正しいと思う。
また昨年7月15日付けのブログでも書いたが、NHK「ためしてガッテン」で紹介された「超ラク山登り術」。
①演歌を口ずさみながら登る
②下りも小股で歩く
③食べ物は味噌汁がいい
これから山ガールデビューをしようと思ってる方、山ガール初心者の方、是非とも、実践してみてください。
うちの事務所から歩いて1~2分の所(御幸町夷川上る)にあるフレンチレストラン「ブランピエール」。
昨年できたばかりだが、テレビや雑誌などにも時々紹介され、結構、予約の取れない店になっている様子。
ランチも前菜からスープ、メインディッシュもついて本格的なので、割と気に入っている。
普段の昼食は近所のお弁当ですませてしまうが、友達が来たりすると、時々、行ってみる。
昨日は、離婚訴訟が終了した女性依頼者の方とランチをご一緒した。
遠方から高速道路を飛ばして、昼ごろに来訪。
彼女は、地元の弁護士に頼んだ離婚調停がうまくいかず、遠方にもかかわらず「離婚訴訟は、先生に是非担当してもらいたい」と頼まれ引き受けた。
初めて相談に来られた頃の彼女は、自分は離婚できるだろうか、子どもの親権は取れるだろうか、その2つの大きな不安が顔にも言葉にも出ていた。
そんな彼女に対し、子どもを引き取っての別居期間が結構長くなっていることもあり、「訴訟をすると時間がかかるかもしれないが、大丈夫」と答えた。
昨日の彼女は、夫との婚姻から開放され、本当に嬉しそうだった。
今まで何度もこのような女性たちの顔を見て来たが、何度そして何人見ても、私もその都度嬉しくなる。
二人ともおなか一杯となり、「また京都に来た時には寄ってもいいですか?」「是非!是非!」と約束して別れた。
お幸せに!
8月2日朝、昨夜の雨もやみ、雲はあるが、晴れてる!やっと、白雲岳避難小屋から先に行ける!
この日は、約16キロの長い歩行。最初しばらくは、高根ケ原の溶岩台地の稜線歩きが続く。周囲の山々を眺めながら高山植物が咲く高原の歩きは快適である。天候が悪化したら、風の通り道になるような台地。その時は地獄。でも晴れれば、天国のような散歩道である。大雪山系の奥深くに、こんなに広大で平坦な場所があるなんて・・・
いくつかの山を越え、化雲平(かうんだいら)に至る。ここも広大な平原。周囲には高山植物や池があり、トムラウシ山もすぐ近く、雲の間から見え隠れする。のんびり木道を歩く。ここは本当に「カムイミンタラ」(アイヌ語で「神々が遊ぶ庭」)のよう。
化雲岳を超え、雪渓を通過すると、まもなくヒサゴ沼避難小屋に着いた。
8月3日、今日はいよいよトムラウシ登頂だ。晴れてる!
ヒサゴ沼から続く大きな雪渓を登り、ヒサゴのコルから少し上ると、目の前に別世界が広がっていた。巨岩の庭。その向こうには、勇壮なトムラウシの姿も。ここが「日本庭園」と呼ばれる場所。すごい!すごい!
「日本庭園」「ロックガーデン」を過ぎ、トムラウシ直下の北沼に到着。北沼の周囲には花が咲き乱れていることを想像していたが、ごくわずかにエゾコザクラの群生地があっただけで、花は少なかった。時期的なものもあるかもしれないが、あとから本を読むと、地球温暖化と鹿害のため、大雪山系の花も減少しているとのこと。
2009年の遭難の時は、この穏やかな北沼が川のようにあふれ、そこを渡るのに多くの時間を要し、登山者の体温を奪った。北沼でも二人の遺体が発見されている。その場所に手を合わせ、いよいよトムラウシへの上りへ。
ごろごろした岩場を慎重に上ると、まもなくトムラウシ山頂に。
2141M。百名山97座目達成!やっと来れた・・・
頂上で大展望を楽しんだ後は下山を残すのみ。下りも長い。前トム平を過ぎると、展望のない樹林帯が続く。行けども行けども、先が見えない。この下山道を利用すると日帰りでトムラウシ山に往復できるので、登山者も多いが、大雪山系の「カムイミンタラ」を感じることはできず、つまらない。やはり縦走が最高である。
こうして3度目の挑戦でトムラウシ山に到達することができた。
1、トムラウシへの想い~1度目の挑戦~
北海道の最奥、大雪山系にトムラウシという山があり、その周辺は、高山植物の花々が咲き乱れ、まるで天上の楽園のよう・・・・
そんな文章を読んだのはもう15年も前のこと。
「行ってみたい!」と思った。しかし、縦走路には避難小屋しかなく、シュラフやマット、食料を持参しなければならない。それまでの有人小屋のラクチン登山とは違っていた。
それでも、「行きたい!」という思いは抑えられず、1997年黒岳~トムラウシの縦走を試みた。
天候は、初日からあまり良くなかった。それでも、1日目の白雲岳避難小屋まではだどり着いた。しかし、翌朝からは、台風のように雨風が吹き、その中を必死で引き返した。
2、2度目の挑戦
それ以降は、トムラウシのことは考えず、北海道以外の山をあちこち登っていた。
そんな折りの2009年7月、トムラウシでアミューズトラベル社のツアー登山客らの大量遭難事故(低体温症死亡)が発生した。
1度目の時、吹き飛ばされそうな強風と雨の中を歩いた記憶がよみがえった。北海道の気候は、荒れると、尋常ではない。
特に、このコースは1度山の中に入ってしまうと、簡単にエスケープできるルートがなく、怖さを認識した。
そして翌2010年7月、2度目の挑戦を試みた。
今度は、アミューズトラベル社のコースと同じく旭岳から入ることにした。昨年遭難があったせいか、登山客が少ないとタクシーの運転手さんから聞いた。
初日は、快晴。道内最高峰の旭岳(2290M)の山頂からは360度の展望があり、トムラウシ山も遠くに望むことができた。前回と同じく白雲岳避難小屋泊。ところが、翌朝、再び天候は悪化。回復する気配もない。またしても泣く泣く撤退した。
3、3度目の挑戦
そして今回。
天気予報はまあまあ。「3度目の正直」「今度こそ」という思いは強い。
8月1日、昨年と同様、旭岳から登り始める。
初日の天気は昨年の方が良い。トムラウシ方面が雲で見えず、周辺も所々雲がかかって展望がきかない。
でも、高山植物が咲き、快適な歩行となった。
そして、三度目の白雲岳避難小屋泊。
夜は雨が降るという予報。
同行のA弁護士は、テント持参にもかかわらず、雨を避け、小屋泊まりにすると言う。
眠っていると、雨が屋根を打つ音が聞こえる。ほんとに雨が降ってきた・・・・
(続く)
滋賀県米原市醒ヶ井(さめがい)の地蔵川で、今、バイカモが見ごろを迎えている(2011年7月27日付け朝日新聞)。
バイカモは、キンポウゲ科の水生多年草で、清流にしか育たない。梅の花に似た白い小花を咲かせることから「梅花藻(バイカモ)」の名がついた。
このバイカモをどうしても見たくて、数年前、醒ヶ井を訪れた。
済んだ川の流れにゆれている白い花は、とても幻想的で、暑さを忘れてしまうほど。
川縁に座って、いつまでも眺めていたい気持ちにかられる可愛らしい花だった。
今年は開花が例年より2週間ほど遅かったようで、8月後半ごろまで見ごろという。
醒ヶ井の町も、中山道の宿場町として栄えた古い町並みを残している。
おすすめスポットである。
昨日、ギャラリーかもがわで開かれている宗由美子さんの個展に出掛けた。
もう20年以上前だったと思うが、宗さんがまだOLをされておられる頃に、職場の権利問題を通じて知り合った。
その後、交流はなかったが、数年前、偶然、由美子さんの個展の案内を目にし、「これは、絶対、あの時の由美子さんだ!」と思って行ってみた。
由美子さんの絵は墨で描かれていたが、「墨絵」とは少し異なり、メルヘンのような、何かほんわかした、優しさにあふれた絵だった。
その時は、由美子さんには会えなかったが、その後にご本人から手紙や電話をいただいた。
そして今回。
東北大震災を経て、由美子さんは語る。
「混沌とした社会の中だからこそ、誰かとつながっていると思えることは大切です。ささやかでも生きていく勇気を生み出します。呼びかけあう心が誰かと共鳴するとき、共鳴の輪が拡がるとき、人は信頼のなかで穏やかに生きていけるのではないしょうか。」
今回の絵は、墨だけでなく、絵具やペンを使ったものもあり、また画仙紙の下からにじませて描かれているものもあり、技術的なすごさを感じた。また、作品自体からは、前回の「ほんわかさ」「優しさ」は消え、むしろ「混沌」や「もどかしさ」などの感情が感じられたのは私だけだろうか。
由美子さん本人にも会うこともでき、しばらくおしゃべりした。
人とのつながりというのは、本当に不思議なものである。
野菜がたぷっり取れる料理で、夏の代表は、やはりラタイトゥユでしょ。
ラタイトゥユとは、フランスのプロバンス地方の家庭料理。
冷蔵庫に残っている野菜なら何でもOK。なす、人参、たまねぎ、ズッキーニ、かぼちゃ、ピーマンなどをすべて小さめの角切りにする。
それらをオリーブオイルとにんにくで柔らかくなるまでいためる。
その後、湯むきしたトマトを入れて強火でさらに炒め、弱火にかえてフタをして10分ほど煮込む。トマトの水煮カンを使ってもOK。その場合には、あまり煮込まなくても大丈夫。
野菜の味がギュッとつまってて、そのままでおいしく食べられる。だから塩・胡椒はお好みでね!
山好き仲間4人と、連休を利用し、7月15日から北アルプスへ山小屋3泊で今夏最初の夏山登山に行ってきた。
メインの山は、薬師岳(2926M)。
薬師岳の山容はなだらかで優しい姿である。頂上付近も平たいだが、ひとたび天候が荒れると、方向を見失う危険な面もある。
昭和38年冬、愛知大学の山岳部の学生13名全員がルートを誤り遭難したことは有名。
朝京都を出発し富山へ。折立から入り、1日目は太郎平小屋、2日目はスゴ乗越小屋、3日目は五色が原山荘に泊まり、室堂に至るコース。
今年は、梅雨が早く空け、全行程、晴れの素晴らしい山歩きとなった。
2日目、3日目は、ほぼ昼過ぎには小屋に着き、男性陣は昼間からビール漬け。最近マラソンにはまっているF弁護士だけは、真夏のマラソン大会の訓練と称して、重いリュックを背負い、一人テント泊。
今年は、夏山に向けての訓練があまりできず、体力が不安だったが、余裕を持ったコースだったことや天候に恵まれたこともあって、ペースを落とすことなく歩き続けることができた。
小出裕章氏(京大原子炉実験所)の「原発のウソ」(扶桑社新書)を読んだ。今年6月に出版されたものだが、すでに20万部のベストセラーになっている。
小出氏は、7月6日付けブログに書いた今中哲二氏と同じく京大原子炉実験所に所属し、今中氏とともに一貫して反原発の立場をとってきた研究者である。
なぜ原子力の学問を続けているのか?
「原子力の学問の中にいながら、原子力が抱える問題を指摘し続けるのが自分の歩む道」が小出さんの答えだ(2011年7月11日付け毎日新聞朝刊)。
「原発のウソ」は、とても平易に書かれており、どんどん読んでいける。
特に、まえがきの一文がいい。
「私はかつて原子力に夢を持ち、研究に足を踏み入れた人間です。でも、原子力のことを学んでその危険性を知り、自分の考え方を180度変えました。『原発は差別の象徴だ』と思ったのです。原子力のメリットは電気を起こすこと。しかし『たかが電気』でしかありません。そんなものより、人間の命や子どもたちの未来の方がずっと大事です。」「起きてしまった過去は変えられませんが、未来は変えられます。」
是非、多くの人に読んでほしい本である。
先週の土曜、高島屋に行った。前日に近畿は梅雨明けし、気温は朝からぐんぐん上がっていた。そこで、精をつけようと、昼食に久しぶりに、うなぎを食べた。
「うなぎの思い出」と言うと、ちょっとオーバーだが、亡母もうなぎが好きで、母がガンで手術して退院したその日、「何が食べたい?」と聞くと、「うなぎ」と言ったので、病院からうなぎ屋に直行したことが思いだされる。
高島屋のレストラン街には、静岡に本店のある「八百徳」という店があった。
「櫃まぶし」も魅力的だったが、蒲焼・白焼・塩焼から2つをチョイスできる定食があり、白焼と塩焼をチョイスした。
うなぎは、やはり蒲焼が一番かなあと思ったが、白焼も塩焼もどちらもあっさりしていて、とてもおいしかった。
特に白焼に、はまった。白焼は、うなぎをタレをつけずに焼いて蒸して更に焼き、それをワサビ醤油で食べる。うなぎのふんわりした食感とワサビ醤油とがマッチし絶品。
これからしばらくの間は、私は白焼に夢中です。